表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/108

小説断章『夜より黒き信義』


パリの夜は美しかった。だが、それは死の匂いを隠すための化粧のようなものだった。

空気は湿っていた。セーヌ川の向こう岸に建つ美術館の裏手で、イルサ・ファウストは暗闇の中に静かに潜んでいた。


目標は、MI6がかつて彼女に割り当てていたコードネーム〈ヴォルペス〉──元シンジケート構成員であり、今はフリーの殺し屋としてヨーロッパの闇市場で動いている男。

その夜、彼は美術館の地下収蔵庫で取引を行う予定だった。盗まれた生体兵器の設計図。パッケージはコンタクトレンズサイズ。中身は都市ひとつを破壊できる情報。


「ターゲットは21:15に現れる」

それが最後に彼女が受け取った情報だった。送信者不明。だが、そんなことは問題ではない。


イルサ・ファウストは“自分が動くべきだ”と思えば動く。情報機関にも、国にも、命令にも、彼女はもう属していなかった。


彼女が従うのは――ただ、自分の“信義”だけ。


彼女は黒のレザージャケットの下に、小型拳銃と折りたたみ式のナイフを隠していた。

右耳には音声なしのワイヤレスインカム。左手首には独自に改造した通信スクランブラ。

通路に立つ警備員の歩調、カメラの旋回角度、照明の色温度変化――それらすべてを視線と直感で記憶していく。


「イルサ、お前は怪物か人間か?」


かつて、MI6の上官がそう問いかけた。

彼女は答えなかった。だが、今もなおその問いだけが耳に残る。


人間は、信じれば裏切られる。

怪物は、信じることを必要としない。

そしてイルサ・ファウストは、信じることをやめなかった怪物だった。


地下通路へ続くハッチを開けた瞬間、微かに油と金属の匂いが鼻を突いた。

階段を一段ずつ降りるたびに、過去の記憶が脳裏にこびりつく。


──シンジケートの潜入任務。

──情報提供と裏切りの連鎖。

──MI6による“切り捨て”という名の作戦終了命令。


「君は使い捨ての歯車だ。お疲れさま、イルサ。」


それでも彼女は死ななかった。生き残ることを選び続けた。

そして、殺しの技術よりも、「誰のために引き金を引くか」という感覚を捨てなかった。


その夜も同じだった。


ターゲットは現れた。


スーツ姿の男。整った髭。視線の動きに一点の迷いもない。

彼女と同じだ。“誰も信じない者”の動きだった。


男が設計図を受け取ろうとした瞬間、イルサはゆっくりと廊下に姿を現した。

黒い影が灯りに浮かぶ。


「あなたがまだ生きていたとは驚きね、ヴォルペス」


男は驚かなかった。微かに笑った。


「イルサ・ファウスト……か。死んだと聞いていた」


「そう簡単には死なないわ。あなたほどではないけど」


会話は1分も続かなかった。

交渉はなかった。撃つ理由も、撃たない理由もなかった。


イルサは一歩踏み出し、

男は腰のホルスターに手を伸ばし、

次の瞬間には銃声が3回、ほぼ同時に響いた。


ヴォルペスが膝をつき、ゆっくりと崩れ落ちる。


彼女の肩に血が飛び散った。だが、彼女はその場に留まらなかった。


設計図のチップを回収し、装置にスキャンする。フェイクではない。

正真正銘の、生きた殺人装置の設計だった。


彼女はチップを懐に入れると、壁の陰に身を潜めて目を閉じた。

数秒後、誰かの足音が近づく。


「やはり、あなたが来ると思っていた」


低く、落ち着いた声。イーサン・ハントだった。


彼の目に、わずかな安心と、深い疑問が混ざっていた。


「どうして一人で来た?」


イルサは肩をすくめてみせる。


「誰にも属していない。誰にも邪魔されたくなかった」


「まだMI6を信じないか?」


「信じてないのは、自分よ。でも――信じたいとは思ってる」


その一言が、彼女の中に残された“人間性”のすべてだった。


任務は終わった。チップはIMFが管理する保管庫に送られ、闇市場への流出は阻止された。

MI6からは何の連絡もなかった。感謝も賞賛も処分も、何も。


彼女はそれでいいと思っていた。

任務が目的ではなく、“選んだ行動の結果”が、自分を形作っているのだから。


イーサンは彼女に言った。


「いつか、何も背負わずに生きられる日が来るといい」


彼女は答えなかった。

ただ、少しだけ――唇の端が上がった。


それは笑みというにはあまりに淡く、

涙というにはあまりに強い、

イルサ・ファウストだけが持つ、信義の表情だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ