小説断章『夜より黒き信義』
パリの夜は美しかった。だが、それは死の匂いを隠すための化粧のようなものだった。
空気は湿っていた。セーヌ川の向こう岸に建つ美術館の裏手で、イルサ・ファウストは暗闇の中に静かに潜んでいた。
目標は、MI6がかつて彼女に割り当てていたコードネーム〈ヴォルペス〉──元シンジケート構成員であり、今はフリーの殺し屋としてヨーロッパの闇市場で動いている男。
その夜、彼は美術館の地下収蔵庫で取引を行う予定だった。盗まれた生体兵器の設計図。パッケージはコンタクトレンズサイズ。中身は都市ひとつを破壊できる情報。
「ターゲットは21:15に現れる」
それが最後に彼女が受け取った情報だった。送信者不明。だが、そんなことは問題ではない。
イルサ・ファウストは“自分が動くべきだ”と思えば動く。情報機関にも、国にも、命令にも、彼女はもう属していなかった。
彼女が従うのは――ただ、自分の“信義”だけ。
彼女は黒のレザージャケットの下に、小型拳銃と折りたたみ式のナイフを隠していた。
右耳には音声なしのワイヤレスインカム。左手首には独自に改造した通信スクランブラ。
通路に立つ警備員の歩調、カメラの旋回角度、照明の色温度変化――それらすべてを視線と直感で記憶していく。
「イルサ、お前は怪物か人間か?」
かつて、MI6の上官がそう問いかけた。
彼女は答えなかった。だが、今もなおその問いだけが耳に残る。
人間は、信じれば裏切られる。
怪物は、信じることを必要としない。
そしてイルサ・ファウストは、信じることをやめなかった怪物だった。
地下通路へ続くハッチを開けた瞬間、微かに油と金属の匂いが鼻を突いた。
階段を一段ずつ降りるたびに、過去の記憶が脳裏にこびりつく。
──シンジケートの潜入任務。
──情報提供と裏切りの連鎖。
──MI6による“切り捨て”という名の作戦終了命令。
「君は使い捨ての歯車だ。お疲れさま、イルサ。」
それでも彼女は死ななかった。生き残ることを選び続けた。
そして、殺しの技術よりも、「誰のために引き金を引くか」という感覚を捨てなかった。
その夜も同じだった。
ターゲットは現れた。
スーツ姿の男。整った髭。視線の動きに一点の迷いもない。
彼女と同じだ。“誰も信じない者”の動きだった。
男が設計図を受け取ろうとした瞬間、イルサはゆっくりと廊下に姿を現した。
黒い影が灯りに浮かぶ。
「あなたがまだ生きていたとは驚きね、ヴォルペス」
男は驚かなかった。微かに笑った。
「イルサ・ファウスト……か。死んだと聞いていた」
「そう簡単には死なないわ。あなたほどではないけど」
会話は1分も続かなかった。
交渉はなかった。撃つ理由も、撃たない理由もなかった。
イルサは一歩踏み出し、
男は腰のホルスターに手を伸ばし、
次の瞬間には銃声が3回、ほぼ同時に響いた。
ヴォルペスが膝をつき、ゆっくりと崩れ落ちる。
彼女の肩に血が飛び散った。だが、彼女はその場に留まらなかった。
設計図のチップを回収し、装置にスキャンする。フェイクではない。
正真正銘の、生きた殺人装置の設計だった。
彼女はチップを懐に入れると、壁の陰に身を潜めて目を閉じた。
数秒後、誰かの足音が近づく。
「やはり、あなたが来ると思っていた」
低く、落ち着いた声。イーサン・ハントだった。
彼の目に、わずかな安心と、深い疑問が混ざっていた。
「どうして一人で来た?」
イルサは肩をすくめてみせる。
「誰にも属していない。誰にも邪魔されたくなかった」
「まだMI6を信じないか?」
「信じてないのは、自分よ。でも――信じたいとは思ってる」
その一言が、彼女の中に残された“人間性”のすべてだった。
任務は終わった。チップはIMFが管理する保管庫に送られ、闇市場への流出は阻止された。
MI6からは何の連絡もなかった。感謝も賞賛も処分も、何も。
彼女はそれでいいと思っていた。
任務が目的ではなく、“選んだ行動の結果”が、自分を形作っているのだから。
イーサンは彼女に言った。
「いつか、何も背負わずに生きられる日が来るといい」
彼女は答えなかった。
ただ、少しだけ――唇の端が上がった。
それは笑みというにはあまりに淡く、
涙というにはあまりに強い、
イルサ・ファウストだけが持つ、信義の表情だった。




