小説断章『監視者の孤独』
午前4時37分、CIA本部ラングレー、ウルフ棟地下2階。蛍光灯の光に青白く照らされた作戦室に、エド・ホフマンは独り座っていた。
「なぜお前は、そこに行きたがるんだ?」
彼はかつてそう呟いた。中東の赤茶けた都市を、自らの足で歩こうとするフェリスに対し、心底理解不能という顔で。それは軽蔑でも怒りでもなく、純粋な疑問だった。
彼にとって「現場」はすでに過去の残滓だ。汗と血と泥にまみれて得られる情報より、グリッド上の一点が発する衛星パルスの方が信用できる。
椅子に座り、複数のモニターを指先で操作する。
そこで“世界”を見渡す。
彼は、神ではない。ただの支配者の模倣者だった。
その日、ヨルダンの首都アンマンで、“アル・サリーム”の伝令が動くという報告があった。
ターゲットは旧市街北部のサナア通り、雑貨店の裏。
「サリームの足跡だ。衛星解析班、映像5-1を再確認。人物解析かけて、信号と一致するか調べろ。」
声は落ち着いていた。だが、眉間のしわは深くなる。
ホフマンはスタンディングデスクを起動し、腰を上げる。やや肥えた腹を気にするそぶりもなく、淡々とコーヒーに手を伸ばした。
「ロジャーはどうしてる?」
部下の分析官が答える。
「現地で確認中です。彼は、事前に現場での直接接触を希望しています。」
「……まただよ。」ホフマンはため息をついた。
フェリスは、いつも「直接会う」と言い張る。目と目を合わせなければ真実は見えないと。
ナイーヴだ、とホフマンは思った。戦争は、人間を信じてはいけない局面でこそ勝敗が決まる。
「君が信じる“関係”は、相手が裏切った瞬間にすべて無意味になる」
そう言い放ったのは一年前だ。だがフェリスは、そのときも表情を変えなかった。
ただひとつ彼を苛立たせるのは、「現場の感情」が自分のロジックに割り込んでくることだった。
画面にはサナア通りのリアルタイム映像が映っていた。無人偵察機MQ-9リーパーの赤外線フィード。
ホフマンはコーヒーを片手に、スリッパ姿でディスプレイの前に立つ。
ターゲットは、果物屋の裏手に設けられたテント。
傍らを歩く人物が一瞬こちらを見上げたように見えた。
「あれが……フェリスか?」
解析班が答える。
「否、現地のジャーナリストと推定。フェリスは今、カフェにいます。」
「そうか……」とつぶやくと、ホフマンは手元のiPadを開いた。
計画Bを起動する。
彼の思考は単純だ。感情は評価軸にない。信頼ではなく、確率と帰結がすべて。
仮にフェリスが動かなくても、計画Bでターゲットを排除すれば済む話。
目標は「テロ網の破壊」であり、「部下の満足」ではない。
「ドローン、ウェイポイント変更。ターゲットのテントを照準ポイントに。承認コード“HOFF-3825”」
命令は冷静だった。まるで、ピザをオーダーするように。
だがその瞬間、モニターにフェリスの姿が映った。
カフェの向かい、現地の少年と短く言葉を交わし、ターゲットへ接近していた。
「まただ……計画に入っていない」
ホフマンの眉がさらに歪む。
「アボートだ。攻撃中止。今撃てば……奴まで吹き飛ぶ」
無線は沈黙。誰も彼に逆らえない。
その一言で、すでに照準に入っていた爆撃プロセスが凍結された。
数時間後、ホフマンはオフィスでジャケットを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
脇には家族の写真。笑顔の息子、妻の顔。彼は電話をかけた。
「今夜は遅くなる。ああ、夕食には間に合わないと思う。……いや、大丈夫。マシューの試合のビデオは後で見るよ。」
その声には、どこまでも“普通の父親”の響きがあった。
だがその手は、未遂に終わった暗殺命令の報告書にサインしていた。
作戦後、フェリスから報告はなかった。
いや、正確には、フェリスから“報告しない”という意思表示だった。
ホフマンは机に座り、静かにつぶやく。
「駒が意思を持つと、面倒だな」
その言葉は皮肉だった。だが、その裏に微かな寂しさがあったことに、彼自身すら気づいていなかった。
衛星通信システムが作動音を立てる。画面には、新たなターゲット候補。イラク西部、ファルージャの地下施設。
ホフマンは眼鏡を直し、操作パネルに指を伸ばした。
感情ではなく、命令のために。
理解ではなく、勝算のために。
結語:ホフマンという“非共感的な主語”
この断章は、エド・ホフマンという男の「戦略合理主義と個人の感情との距離」を主軸に描いています。
現代の諜報戦では、こうした「感情をもたない情報の執行人」こそがシステムの心臓部となり、だからこそ彼の孤独は誰にも理解されないのです。
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