『灰の街にて』
アンマンの朝は、かすれた喉のように乾いていた。ロジャー・フェリスは古びた日産のSUVを降り、スークの裏手に広がる路地へと足を踏み入れる。頭上には乱雑に張り巡らされた電線と、鳴き止まぬ鳩の群れ。彼は無造作にジャケットの襟を立て、歩きながら周囲を一瞥した。目線はまっすぐではない。何かを考えるとき、彼はいつもわずかに目を逸らす癖がある。
通信機に耳を傾ける。「カナリア、応答せよ。現場到着」――スピーカー越しに砂を噛むような声が返る。「カナリアより、受信。ターゲットは屋上にいる。監視継続中。」
フェリスは頷く。右手をポケットに滑り込ませ、冷たいスチールの感触を確かめる。偽造ID、折り畳まれたマップ、グロック19。すべてが手の中で彼の任務の一部だった。
この街では“正義”は形を変える。昨日まで信頼していた協力者が、今朝には爆破事件の首謀者として写真付きで貼り出される。CIAのオフィスには衛星と無人機があるが、フェリスの足と直感ほどの確度は持たない。
彼は通称「アル・アフマル」と呼ばれる情報屋と接触する予定だった。ターゲットの連絡係であり、かつヨルダン軍からも睨まれている存在。場所はモスク裏のカフェ、“サハラ・ティー”。地元の若者とサラフィー派の説教師が肩を並べる、混沌の縮図だ。
席につくと、アイシャの面影がよぎる。看護師、ただそれだけの存在であったはずの彼女の存在が、なぜここまで深く胸に残っているのか。彼女の手の温もり、静かな声。戦場のような都市の中で、唯一「生きて帰りたい」と思わせた存在だった。
「ロジャー。」
アル・アフマルが姿を現した。黒いカフタンに身を包み、笑みをたたえているが、その目はいつも通り死んでいた。
「ターゲットは今日動く。サナア行きのバスに乗る予定だ。だが――」
「だが?」
「君の上司が先に動いた。ヨルダンの情報局に情報を売った。ハニも知らされていない。」
フェリスは一瞬、深く息を吐いた。そういうことか。ホフマンだ。衛星画像だけで作戦を立てる男。現場の命より、机上の勝算を優先する官僚。
「……ありがとう」と彼は言った。だが内心では、再び孤独を背負う覚悟を固めていた。アイシャとの未来など、もはや贅沢すぎる幻想かもしれない。だが、それでも。彼は人として、まだ何かを信じていたかった。
立ち上がると、太陽がわずかに顔を出した。赤茶けた街に長い影が伸びていく。ロジャー・フェリスはその影を踏みしめながら、再び歩き出す。
――誰かの命のために。
彼はもう一度、衛星電話を開いた。数字の羅列を押し、接続先を確認する。だが、送信はしなかった。指はボタンの上で止まり、やがて閉じる。自分が動けば、誰かが死ぬ――その確率が、あまりにも高すぎると感じていた。
カフェを出たフェリスは、モスクの南通りを歩きながら考えた。街のどこかにアイシャはいる。彼女は表立っては接触できない。自分が敵にマークされているからだ。だが、夜には誰かからのメモが届くだろう。少なくとも、彼はそう信じていた。
道ばたの屋台でチャイを一杯買う。熱い。それだけが現実のように思える。無人機では触れられない熱。AIの戦略では感じられない「生」の証。
この任務が終われば、自分は……。フェリスは自問する。だが答えはなかった。ただ、この街に残るわずかな人間性だけが、彼の歩みを支えていた。
ホテルの一室、灯りを落としたベッドサイドに、1枚の紙片が置かれていた。筆跡は細く、震えていた。
「明日の午後、海岸沿いの病院で」
フェリスは紙を見つめ、微かに笑った。
彼はまだ人間でいられる。




