表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/108

『灰の街にて』


アンマンの朝は、かすれた喉のように乾いていた。ロジャー・フェリスは古びた日産のSUVを降り、スークの裏手に広がる路地へと足を踏み入れる。頭上には乱雑に張り巡らされた電線と、鳴き止まぬ鳩の群れ。彼は無造作にジャケットの襟を立て、歩きながら周囲を一瞥した。目線はまっすぐではない。何かを考えるとき、彼はいつもわずかに目を逸らす癖がある。


通信機に耳を傾ける。「カナリア、応答せよ。現場到着」――スピーカー越しに砂を噛むような声が返る。「カナリアより、受信。ターゲットは屋上にいる。監視継続中。」


フェリスは頷く。右手をポケットに滑り込ませ、冷たいスチールの感触を確かめる。偽造ID、折り畳まれたマップ、グロック19。すべてが手の中で彼の任務の一部だった。


この街では“正義”は形を変える。昨日まで信頼していた協力者が、今朝には爆破事件の首謀者として写真付きで貼り出される。CIAのオフィスには衛星と無人機があるが、フェリスの足と直感ほどの確度は持たない。


彼は通称「アル・アフマル」と呼ばれる情報屋と接触する予定だった。ターゲットの連絡係であり、かつヨルダン軍からも睨まれている存在。場所はモスク裏のカフェ、“サハラ・ティー”。地元の若者とサラフィー派の説教師が肩を並べる、混沌の縮図だ。


席につくと、アイシャの面影がよぎる。看護師、ただそれだけの存在であったはずの彼女の存在が、なぜここまで深く胸に残っているのか。彼女の手の温もり、静かな声。戦場のような都市の中で、唯一「生きて帰りたい」と思わせた存在だった。


「ロジャー。」


アル・アフマルが姿を現した。黒いカフタンに身を包み、笑みをたたえているが、その目はいつも通り死んでいた。


「ターゲットは今日動く。サナア行きのバスに乗る予定だ。だが――」


「だが?」


「君の上司が先に動いた。ヨルダンの情報局に情報を売った。ハニも知らされていない。」


フェリスは一瞬、深く息を吐いた。そういうことか。ホフマンだ。衛星画像だけで作戦を立てる男。現場の命より、机上の勝算を優先する官僚。


「……ありがとう」と彼は言った。だが内心では、再び孤独を背負う覚悟を固めていた。アイシャとの未来など、もはや贅沢すぎる幻想かもしれない。だが、それでも。彼は人として、まだ何かを信じていたかった。


立ち上がると、太陽がわずかに顔を出した。赤茶けた街に長い影が伸びていく。ロジャー・フェリスはその影を踏みしめながら、再び歩き出す。


――誰かの命のために。


彼はもう一度、衛星電話を開いた。数字の羅列を押し、接続先を確認する。だが、送信はしなかった。指はボタンの上で止まり、やがて閉じる。自分が動けば、誰かが死ぬ――その確率が、あまりにも高すぎると感じていた。


カフェを出たフェリスは、モスクの南通りを歩きながら考えた。街のどこかにアイシャはいる。彼女は表立っては接触できない。自分が敵にマークされているからだ。だが、夜には誰かからのメモが届くだろう。少なくとも、彼はそう信じていた。


道ばたの屋台でチャイを一杯買う。熱い。それだけが現実のように思える。無人機では触れられない熱。AIの戦略では感じられない「生」の証。


この任務が終われば、自分は……。フェリスは自問する。だが答えはなかった。ただ、この街に残るわずかな人間性だけが、彼の歩みを支えていた。


ホテルの一室、灯りを落としたベッドサイドに、1枚の紙片が置かれていた。筆跡は細く、震えていた。


「明日の午後、海岸沿いの病院で」


フェリスは紙を見つめ、微かに笑った。


彼はまだ人間でいられる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ