『ハリルの銃』──断章
俺の名は、ハリル。
サブーハ(暁の祈り)のあと、隊長が言った。「今日は選別がある」。それはつまり、“アマル(義務)”だと。信仰に生き、背信者を裁くことは、神の命令だ。俺は頷いた。アッラーは偉大なり──そう唱えた。
けれど、バスが見えたとき、俺の手は汗ばんでいた。
ただのボロい観光バス。砂に埋もれかけたタイヤ。ヒビだらけの窓。俺たちの弾がそれを貫くたび、ガラスが花のように咲いた。誰かが泣き叫び、誰かはただ黙っていた。だが、俺は一発も撃たなかった。
銃を持ったまま、ただ見ていた。
車内には老女、女、子ども。宗教服を着た者もいれば、西洋風の服の者もいた。隊長は「識別しろ」と言った。「背信者の証拠を見つけろ」と。
十字架、ロザリオ、福音書──
それを見つけたとき、先輩たちは撃った。手慣れたものだった。ひとつの行動。感情など伴わぬ儀礼。神の法を執行する手、ただそれだけのはずだった。
でも俺は──あるひとりの女から目が離せなかった。
アバーヤを着た若い女。腕に少女を抱いていた。おそらくイスラムの女。だが、なぜか彼女は声を上げなかった。泣きもしない。叫びもしない。ただ娘を抱いていた。肩は震えていた。でも、眼は、まっすぐだった。
その娘──まだ七つか八つだろう。顔は埃にまみれていたが、瞳は澄んでいた。母の腕にしがみつき、祈るように揺れていた。
「娘だけでも……お願い……」
彼女が呟いた。
誰に向けての言葉だったか、分からない。神かもしれないし、俺たちかもしれない。けれど、彼女はそれ以上、何も言わなかった。
俺の隣にいた隊員が無言で銃を構えた。
引き金を引く前の一瞬、俺は彼の腕を掴みそうになった。
だが──できなかった。
音が鳴った。母親の身体が崩れ、地面に倒れた。
娘が叫んだ。「お母さん!!」
砂漠が裂けるような声だった。俺の心臓の奥で何かが鳴った。鼓膜ではない、もっと奥深くで。
娘は走った。俺の目の前を通り抜け、血の中に伏した母に抱きついた。
「お母さん、目を開けてよ……!」
その次の銃声は、俺の背後からだった。
振り返ることもできなかった。
娘の身体が跳ね、母の上に崩れ落ちた。
俺は動けなかった。立っていながら、崩れていた。足元の砂が溶けていくようだった。銃を持つ手が震えていた。信仰の言葉が、喉から出てこなかった。
しばらくして、別の女が歩いてきた。黒髪、色白の顔、ヨーロッパ風の女。だが彼女は、十字架を捨て、シャハーダを唱えた。誰も強制していなかった。
「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー……」
その声があまりに静かで、俺は思わず目を閉じた。
何を見て、彼女は神の名を唱えた?
彼女は、母と娘の亡骸の横に座り込み、手を重ねて瞳を閉じた。その姿は、俺の中にあった“敵”の像を崩壊させた。言葉も、教義も、銃も、すべてが無力に見えた。
俺は銃を下ろした。
誰にも見られないように。何かが胸の奥で焼けるように熱くなった。だがそれが罪なのか、目覚めなのか、俺にはわからなかった。
その夜、火のない焚き火の前で俺は座っていた。
耳にはまだ少女の声が残っていた。
「お母さん……」
俺は銃を抱いたまま、口を開けなかった。
信仰とは何だ?
敵とは誰だ?
あの娘は、何に属していた?
答えは、沈黙だった。だが、俺はその沈黙を──初めて“聴いた”ような気がした。




