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『影の祈り』──断章


バスの中は、もはや死の箱舟だった。


座席の間を流れる血は、乾いた革張りの床を伝い、赤黒く凝固していく。射抜かれた窓の外では、風が砂を巻き上げる音だけが聞こえていた。かつて歓声や祈りを乗せたであろうこの車両には、今、言葉がなかった。ただ、呻き声と、低く押し殺した泣き声だけが残っていた。


その時だった。悲鳴が、鋭く空気を裂いた。


「お母さん!!」


ナディアは瞬間、座席越しに身を乗り出した。前方で──彼女が名も知らぬイスラム教徒の母親──が、銃を突きつけられていた。


女は恐怖を抑えるように背筋を伸ばし、腕にしがみつく娘を後ろにかばうように立ちはだかっていた。アバーヤの裾が風で揺れ、その顔には涙と砂埃がこびりついていた。


「娘だけは……彼女は何もしていません、お願いします……」


男たちは聞いていなかった。彼らの耳は神に向いている。神とは、彼らの掲げる銃口だった。


一発。沈黙。倒れた身体の周囲に、砂が音もなく落ちていく。


ナディアの脳が、時間を拒絶した。


次の瞬間、少女が走り出した。


「おかあさ――!」


ナディアは叫んだ。止めろ、と。しかし身体が動かない。喉が引き裂かれるようだった。少女は母のもとに駆け寄り、揺り起こそうとした。母の手を握り、肩を揺すった。そのあまりに小さな姿は、世界を赦そうとしていた。


だが、赦されることはなかった。


パパンッ──短い破裂音が響いた。少女の身体が跳ね、赤い花びらのようなものが宙に舞った。


世界が、崩れた。


ナディアの目の前で、母と娘のふたつの亡骸が、折り重なっていた。バスの外では歓声が上がっていた。「サイリーナ・リッラジュナ!」(楽園へと行け)──それは、殉教者への賛歌。だが彼らが祝福する“神”は、彼女の知る神とは違っていた。


ナディアは動かなかった。いや、動けなかった。


まるで己の身体を包む空気が鉛に変わったかのように、背中が座席に貼りつき、手の指は固まっていた。


──あの母親は、私に目で訴えた。


そう確かに感じた。あの一瞬、自分に──「この子を託します」と。


だが、彼女は動けなかった。


結果、娘も母も、血の中に沈んだ。言葉では表せない“責任”の感覚が、ナディアの胸を押し潰した。それは後悔ではなかった。ただ、“背負うべきもの”が自らの内部に深く沈んでいくような──重力を持った信仰のような感覚だった。


どれほど時間が経ったのか。


銃を持った男が、ナディアの髪を掴み、無言で顔を覗き込んできた。だが、彼女は目を逸らさなかった。


「聞こえるか?」


彼は尋ねた。唇は動いていたが、声は遠くに感じられた。


「お前はキリスト教徒か?」


その言葉が、過去の自分を引き裂いた。ナディアは──元はそうだった。だが戦火の中で、宗派も聖書も、神の名も、彼女にはもう意味を持たなくなっていた。ただ、「人間である」ということ、それだけを信じていた。


だが、今は違う。


彼女の中で何かが変わっていた。あの少女の死を目撃したときから──あの瞬間、何かが彼女に触れた。


「……いいえ」


彼女は呟いた。


「私は……ムスリマ(ムスリム女性)です」


男は目を細めた。「証拠は?」


ナディアは立ち上がり、ゆっくりと血に濡れたロザリオを手から落とした。それは、死者の祈りに使われるものであり、今はもう“過去”だった。バスの床に落ちると同時に、それは「帰らない場所」になった。


「シャハーダ(信仰告白)を唱えるか?」


ナディアは、震える声で口を開いた。


「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」


その瞬間、空が音を失った。


彼女の背後では、死者たちが静かに眠っていた。目を閉じて、もう何も語らない。そのすべてが、ナディアの中で生きていた。彼女の祈りには、もはや「神を説得する言葉」は必要なかった。ただ、「その場に立ち会い、見届け、選ぶこと」──それだけが信仰だった。


男たちは、彼女を撃たなかった。


あるいは、驚いたのかもしれない。あるいは、ただ一人、名もなき“ムスリマ”が、バスの死者たちの最後の証人になることを許したのかもしれない。


ナディアは歩き出した。血とガラス片と亡骸の間を、ただ静かに、まるで礼拝のように。


祈りとは、誰かに許しを請うものではなかった。


祈りとは、死者を裏切らないことだった。


そして、彼女はその場に立ち続けた。ひとり、声も上げず、名も残さず、ただ風の中で殉教する者として。


(了)

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