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【断章】氷の呼吸



――内閣官房長官 村松久美は、首相官邸地下1階、危機管理センターの一角で、凍ったような瞳を持つ男と向かい合っていた。


「テロの標的は、我が国そのものか。あるいは──私たちの“決断”そのものね」


わずかに擦れたその声には、政治家の常套句ではない何かが宿っていた。


住本健司。警視庁公安部外事第4課作業班の男は、鋭い視線のまま頷いた。


「発火点は、外にはなく、国内にあります。村松官房長官、これは国家の根幹を揺るがす“構造的自爆”です」


「自爆……?」


村松は、椅子の背に深くもたれた。ふと、眼鏡のブリッジに指先が触れる。


「つまり、誰かが日本の“中枢”にトリガーを仕込んだと?」


住本の口元がわずかに緩む。皮肉とも諦念ともつかない。


「はい。そしてそのトリガーは……“善意”と“誤解”で構成されています」


室内の空調が低く唸る。電灯は青白く、冷気のように光を拡散する。まるで、あらゆる“情”が凍りつく場所だ。


村松久美は、昔から冷静な人物だった。女性として、母として、そして何より国家の行政官として。政治の世界は、戦場よりも冷たいことを、彼女は自らの身体で知っていた。


いま、ここで彼女は“国を選ぶか、正義を選ぶか”という岐路にいる。


「私は……」


短く言いかけて、口を閉ざす。官房長官としての言葉ではなく、“村松久美”という女の名で語るには、覚悟が必要だった。


「住本さん。外事第4課は、内閣の直接指揮下に入れることができる。必要なら、法務・警察庁を巻き込むわ。だけど──」


「“だけど”、ですか」


住本の声は静かだった。裏切りにも似た淡々とした響き。しかし村松の瞳は、それに屈しなかった。


「あなたが動くということは、誰かが“いなくなる”ということを意味するわ。違う?」


住本の目は、沈黙の中で、わずかにうなずいた。


“政治”とは、もともと物語である。物語を誰が語るかで、真実の輪郭が変わる。


村松久美が最初にそれを痛感したのは、三十代半ば、外務省から内閣府に出向していた時だった。国際会議での日本の外交的“勝利”は、実のところ、欧州諸国からの妥協と米国の無関心で成り立っていた。それでも日本のメディアはこう書いた。


――「村松官僚、世界を動かす」。


そんなことはなかった。現実は、権限なき使者が右往左往しながら、危ういバランスの中で静かに“何も決まらない”ように仕組んだだけだった。


だが、その“決まらなさ”こそが、時に世界を守ることもある。


その感覚を、いま彼女はこの会議室の空気の中で再び嗅ぎ取っていた。


「私にしかできない“なにか”があるなら、やるわ。だって私、総理を目指す女よ?」


冗談めかしたその口調の奥に、住本は――“覚悟”を見た。


情報はすでに入っていた。中央アジア経由で密輸された高濃度のプルトニウム。仲介に動いたのは在日某国商社の“幹部”で、彼は都内の大学に偽名で留学経験があり、日本語も堪能。外務省や経産省にもパイプを持っている。決して派手な動きはしないが、常に“何か”を仕込んでいる。


この情報を誰がもたらしたのか、村松は知らない。しかしその扱い方は知っている。


「彼を“泳がせる”ならば、逮捕のタイミングは極限まで遅らせるべきだわ」


「承知しています。しかしその間に、何人が犠牲になるか──」


住本が言いかけたとき、村松は右手をゆっくりと上げ、制した。


「違うの。いま優先すべきは、“犠牲者の数”ではない。もっと怖いのは、“物語が敵に書き換えられる”ことよ」


住本の眉がわずかに動いた。


「……と、おっしゃいますと?」


「たとえば、あなたが無許可で彼を処分したとして、すぐに“暴走公安”という見出しが新聞に踊る。国民はそれを恐れ、政治は外事警察を解体する方向へ動くでしょう。結果、残るのは、“敵の仕掛けた物語”だけよ」


村松の声は、氷のように冷たく、正確だった。


「私は、敵よりも先に“この国の物語”を書く必要があるの」


彼女は首相官邸を出たあと、わずか10分だけ車を停め、警察庁長官官房に寄った。誰にも知らせず、エレベーターを使わず、古い非常階段をのぼった。


そこには、警備局長の有賀正太郎がいた。


「お前らしいな」


有賀は、封筒をひとつ差し出した。中には、未報道の“記録映像”がある。CIAとの極秘情報交換の現場。敵の正体。そしてその中に、意外な名前がある。


村松の後援団体の副理事。彼女の政治人生を最初に後押しした、いわば“恩人”。


「どうする? 公に出せば、確実にお前の政治生命は終わる」


「……だから出すのよ」


即答だった。


「私は、あの人に“夢”を見せてもらった。その人の過ちが、この国を壊すなら、私は“夢”を切り落とすしかない」


有賀が目を伏せたとき、村松は背を向け、静かに口を開いた。


「私は、女だからといって、涙を武器にしない。だってこれは、戦争でしょう?」


夜明け。新宿上空にヘリの影が流れる。


村松久美は、官邸の一室で、原稿の草稿を読み返していた。今夜、緊急記者会見が行われる。そのための声明だった。


彼女の書く言葉は、もはや政治家のものではない。官僚のそれでもない。


それは、国家という名の“病室”に、冷たい水を流し込む医師の言葉だった。


その原稿の末尾には、こう書かれていた。


「私たちが“安全保障”と呼ぶものの裏には、誰かの“倫理の死”が横たわっている。

だからこそ私は問う。国家とは、誰のためにあるのか。

私はそれを、権力ではなく、痛みから答えたい」


冷たい朝日が、静かに文面を照らしていた。


(了)


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