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『情報の海』



 午前一時、公安部外事第四課の一室は、パソコンモニターの青白い光だけがぼんやりと照らしていた。久野秀真は、淡々とした表情で情報を分析し続けている。薄暗い室内で、彼の細い指がキーボードの上を素早く駆け巡った。スクリーンに表示された無数の情報の断片――通話記録、防犯カメラの映像、交信履歴――を次々と目で追い、些細な関連性や矛盾を探し出す作業だ。


 公安に配属されて以来、久野は常にこうして情報の海を泳いできた。その膨大なデータの中から国家の安全を脅かす兆候を探し出し、敵対勢力の動きを把握することが彼の任務だった。現場に出て派手に活躍するわけではないが、情報分析という地味で緻密な作業こそが、外事警察の活動を根底から支えると彼は信じていた。


 しかし、その膨大な情報の海に飲み込まれそうになることもある。何百というデータを追いかけているうちに、彼自身がその中に埋もれてしまうような錯覚を覚えることもあった。情報が多すぎて、何が本当に重要なのか分からなくなり、自分自身を見失いそうになるのだ。


 「久野さん、ちょっといいですか?」


 唐突に呼ばれ、久野は我に返った。そこには五十嵐彩音が立っていた。彼女はいつものように冷静で静かな眼差しを向けている。久野は小さく頷いて、彼女の話に耳を傾けた。


 「例の通信記録、何か気になることはありましたか?」


 五十嵐の質問に、久野は短く答える。


 「いくつかの不審な交信があります。ただ、それがテロリスト同士の連絡か、単なる偶然の通信か、まだ判断がつきません」


 五十嵐は静かに頷いた。


 「分かりました。住本さんも慎重に進めろと仰っています。引き続きよろしくお願いします」


 彼女が去って行くのを見送った後、久野は再びモニターに視線を戻した。住本――その名を聞くだけで久野は僅かに緊張した。住本健司という男は、公安として卓越した才能を持つが、その行動は時に予測がつかず、非情な決断を下すこともある。久野にとっては、彼の指示を的確に理解し、求められる情報を迅速に提供することが最大の責務であり、同時に最も大きなプレッシャーでもあった。


 久野が再び情報の解析を続ける中、オフィスのドアが再び開き、若手の松沢陽菜が疲れた様子で現れた。


 「久野さん、すみません。少し話を聞いていただけませんか?」


 彼女の声には明らかな不安が滲んでいた。久野は分析作業を一旦中断し、椅子を彼女に向けた。


 「何かあったの?」


 久野の声は落ち着いていて柔らかかった。その穏やかな口調に安心したのか、松沢はためらいがちに言葉を続けた。


 「私、現場に出る度に迷いが生まれて……正しいことをしているのか分からなくなるんです」


 その言葉を聞いて、久野は静かに目を閉じた。一瞬、自分が公安に入ったばかりの頃を思い出した。当時の彼もまた、自分が情報を提供することで、誰かが危険に晒される現実に耐えきれず、何度も自問自答したことがあった。


 「君の迷いはよく分かる」


 久野はゆっくりと口を開いた。


 「僕も昔は同じだった。この情報が誰かの命を危険に晒すかもしれない……そう思うと手が震えることもあった」


 松沢は驚いたように久野を見つめた。彼の表情は普段通り静かで、感情の揺れは表れていないが、どこか深いところで悲しみを抱えているようだった。


 「でも僕たちは情報を扱うプロだ。その情報が何を意味するかを冷静に分析し、適切に使うことが僕たちの使命だ。感情に流されるのは危険だが、それを完全に切り捨てることもできない」


 松沢は静かに頷いたが、まだ完全には納得できていない様子だった。


 「久野さんは、その迷いをどうやって乗り越えたんですか?」


 久野は僅かに微笑んだ。


 「乗り越えたわけじゃない。今でも迷い続けている。ただ、迷うことができるというのは、人間である証拠だと思っている。迷いがなくなったとき、僕たちは機械のようになってしまうからね」


 松沢は久野の言葉を噛み締めるように静かに頷いた。


 彼女が去った後、久野は再び画面に向き合った。情報の海は深く、暗い。その中で迷いながらも、自分がやるべきことは、この膨大な情報を整理し、誰かが適切な判断を下すための手がかりを見つけることだ。


 彼はふと窓の外を見た。東京の夜は暗く、深い闇に包まれていた。しかし、その闇の中にも必ず手がかりがあるはずだ。それを見つけ出すことができるのは、自分たちだけなのだから――。


 久野秀真は、再び静かに情報の海に潜った。

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