『影の権力者』
霞ヶ関の夜は、いつもどこか息苦しい。特に、公安の奥深くに入り込んだ者にとって、この街は息が詰まるような重い闇を抱えている。
倉田俊貴は、窓際に立ち、その闇の底を見下ろしていた。警察庁警備局の高層ビルの一室――通称『ZERO』と呼ばれるその特別室から眺める東京の夜景は、一見すると美しいが、倉田にとっては薄暗く冷たい牢獄のようなものだった。
公安という組織の中枢である警備企画課の理事官である倉田は、表向きは国家の安全保障を担う幹部の一人だ。しかし、裏では公安の最も危険で暗い任務をこなす『ZERO』担当として、組織の内外問わず情報収集を行い、時には非合法な手段さえも駆使している。そのため、彼の名を知る者は限られているが、組織の奥にいる人間ほど、倉田の名前を恐れ、あるいは嫌悪した。
倉田自身も、それをよく理解している。いや、むしろそれを望んでいるのかもしれない。人から好かれようなどとは最初から考えていない。彼が求めるのは、ただ純粋な力と情報、そしてそれを使って公安内部の権力闘争を勝ち抜くことだけだ。
携帯電話が短く震えた。表示された番号を一瞥すると、倉田は無表情で電話に出た。
「倉田だ」
『例の件、住本の動きを監視していますが、彼がまた独断で動いています。局長はまだ黙認していますが、どうしますか?』
電話の相手は、倉田が公安内部に送り込んだ情報提供者だった。倉田は眉を僅かにしかめた。住本健司――警視庁公安部外事第四課の主任で、倉田が最も警戒している人物だ。倉田と住本の間には深い因縁がある。かつて、ある諜報作戦を巡って意見が対立し、それ以来、互いに深い不信と警戒心を抱いている。
「そのまま続けろ。何かあればすぐ連絡しろ」
『了解しました』
短いやり取りを終えると、倉田は静かに息を吐いた。住本は公安の中でも特異な存在だった。国家安全保障の名のもとに、手段を選ばない非情さを持ち合わせている点では自分と似ている。しかし、決定的に異なるのはその目的だ。倉田は組織の論理を徹底的に追求し、個人の感情を完全に排除することを信条としている。一方、住本には、非情さの中にも個人的な感情や信念が垣間見える。倉田にとって、それは危険な兆候だった。
「お前のやり方では、この世界は回らない……」
倉田は独り言のように呟いた。住本の存在が、自分の描く公安のあるべき姿を乱していると感じていた。そして、その背後には警備局長の有賀正太郎がいることも分かっていた。局長の有賀は、住本のやり方を認めつつも、自らは表舞台で指示を出さず、影で糸を引いている。それがまた倉田の怒りを掻き立てた。公安のトップとして、曖昧な態度を取る有賀の姿勢に、倉田は激しい嫌悪を覚えていた。
「有賀も、そろそろ引導を渡さないといけないな」
倉田は静かに唇を歪ませた。自分の邪魔をする者は誰であれ排除する――それが倉田の信念であり、この組織で生き抜いてきた唯一の原則だった。
ふと、机上に置かれた写真が目に入った。自分がまだ純粋な志を持ち、警察官としての正義を信じていた頃の古い写真だ。隣には、かつての同期や仲間が映っている。だが、そのほとんどは既に組織を去り、あるいは非情な任務に耐え切れず壊れていった。生き残った自分自身もまた、いつしか正義よりも力や権力を追い求めるようになっていた。
倉田は写真を伏せると、静かに立ち上がった。自分にはもう戻る場所など存在しない。公安の闇の底に沈み、誰も見たことのない深淵を覗き込んだ人間にとって、過去を振り返ることは許されない贅沢だった。
彼は部屋を出ると、真夜中の廊下を足早に歩いた。その途中、エレベーター前で住本と鉢合わせした。二人の視線が交錯する。言葉は交わさないが、互いの目の中に潜む敵意と緊張が伝わった。
「お前の好きにはさせないぞ、住本」
倉田は視線でそう告げた。
「邪魔をするなら、潰す」
住本の視線もまた、無言のまま強烈な意志を示した。
エレベーターが到着すると、二人は何も言わずに乗り込んだ。無言のまま扉が閉じる瞬間、倉田の胸に深く冷たいものが広がった。国家安全保障を巡る戦いは終わらない。そして、この組織において信じられるものは誰一人としていない。
それでも倉田は、この闇の中を歩き続けるしかなかった。彼が望むのは、純粋な力――その力さえ手に入れれば、どんな敵も排除できる。たとえそれが、自分自身を破滅に導くとしても、倉田俊貴は歩みを止めることはできなかった。
彼を乗せたエレベーターが音もなく降下し、深い闇の底へと沈んでいった。




