小説断章『ホワイトハウスの影』
ホワイトハウス、ウエストウイング――
冬の朝陽が、ローズガーデンの枯れた枝越しにウエストウイングの石灰岩を淡く照らしていた。大統領はオーバルオフィスの窓際に立ち、腕を組みながらその光景を見ていた。
「ミスタープレジデント……」
その背後から、国家安全保障問題担当補佐官ダウナーが静かに声をかけた。「今朝のブリーフィングの前に、議会との協議について一言ございます」
「議会か……」大統領は視線を外に留めたまま答えた。「連中は国益という言葉をどう定義しているのか、分からなくなってきたよ」
「国益とは、あなたの言葉で定義されるべきです。今やそれを実行する権限も、責任も、すべてあなたにあります」
大統領は黙していた。机の上には、朝刊が散らばっていた。そこには『スキャンダル再燃か』の見出しが赤く踊っていた。
「キャンプ・デービッドでの週末休暇の予定は……?」
「予定通りです。ですが、報道機関が騒ぎ立てる可能性があります」
「連中に休息という概念はないらしい」
ダウナーは一歩前に出て、大統領の視線の先をたどった。ザ・エリプスの向こう、観光客の列が膨らんでいる。「ウエストウイングの屋上には、すでに狙撃要員が配置されています」
「そういうことではない。私は、あの家族連れに狙撃銃が向けられているという事実が、悲しいと言っているんだ」
ウエストウイング、国家安全保障局会議室。
部屋の中央には、楕円形の艶やかな木製テーブル。その周囲に、軍服とスーツ姿の男女が沈黙を保ったまま座っていた。
「今回の暗殺情報は、CIAのみならずNSA、DIAからも同時に上がっています。精度は高い」軍情報本部長官が口を開いた。
「目標は……?」
「大統領本人。しかも首都圏での実行を狙っている可能性が高い」
「警護を増強しろ」
「既にシークレットサービスの警備体制は強化済みです。しかし、内部からの情報流出の可能性もあり……」
「ウエストウイング内のセキュリティは?」「問題があると思われます」
「そもそも、あの建物はセキュリティよりも利便性を優先して建築されている」
「それでも、我々には守る義務があります。あのオフィスに座る人物が国家そのものなのですから」
イーストウイング、危機管理センター(PEOC)地下1階。
低く構造化された鋼鉄のドアが重く閉じられると、空間は一転して冷たい緊張感に満ちた。モニターに映し出された映像は、ホワイトハウスの外観、各ゲート、屋上のカウンタースナイパーの映像だった。
「ミスタープレジデントに万一があった場合、職務代行リストに従い、現時点では副大統領、国務長官、国防長官が上位です」
「すでに指定生存者はワシントン外に避難させています」
会議にいた国家安全保障会議事務局長は立ち上がり、タブレットに映し出した文面を読み上げた。「この局面において、迷いは許されません。大統領の指示に優柔不断な態度を取る者は、即座に罷免すべきです。あなたには全連邦職員に対する罷免権があります」
「それが、国家の意志というわけか……」大統領はつぶやいた。
「ミスタープレジデントは、任期が終えても生涯あなたの名の前に冠される偉大な称号です。あなたこそが決断者であり、正義です」
その瞬間、大統領の背筋が伸びた。
「わかった。明日の定例記者会見で、我々のスタンスを明確にする。日米関係は、アメリカの国益を守るためにある。それが国民への答えになる」
「それこそが、強いアメリカの復興の第一歩です」ダウナーが頷いた。
ホワイトハウスの正門。観光客が引きも切らず記念撮影をしていた。
「ねえ、あの建物の上に誰かいるよ」
少年の声に、父親は笑って答えた。「そんな寒空に誰がいるっていうんだ」
だが、確かにそこにはいた。屋上に配置された狙撃兵は、冷たい風の中で身を伏せ、スコープ越しに世界を見ていた。
そして、その照準の先には、いつでも火を噴ける国家の決断が、張り詰めた空気の中に眠っていた。
ホワイトハウスの壁の奥、まだ何も知らぬ人々の静寂な午後。