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『冷たい視線の向こう側』



 まだ薄暗い公安部の作業室に戻ると、五十嵐彩音はため息もつかずに報告書をパソコンに打ち始めた。時計の針は午前3時を回っていた。連日の徹夜も珍しくはないが、彼女は疲労感を一切表情に出さない。ただ、淡々と指を動かし、事件の状況を克明に記録していく。


 数時間前、彼女はある国際テロ組織のメンバーと思われる男の自宅を張り込み、情報収集を行っていた。ターゲットは用心深く、決定的な証拠を掴むのに苦労したが、彼女の冷静な判断と的確な指示のおかげで、どうにか情報の一部を入手できた。しかし、その過程で微かな動揺が彼女の内面をかすめたことを、誰も知る由はないだろう。


 「五十嵐さん」


 不意にかけられた声に、彼女は冷静なまま視線を向ける。若手の松沢陽菜が戸口に立っていた。まだ現場の経験が浅い彼女は、見るからに疲労と不安を隠しきれていない。


 「何かあったの?」

 五十嵐の口調は淡々としているが、どこか気遣いも含まれているようだった。


 「いえ、その、今日はありがとうございました。あの時、五十嵐さんが冷静に判断してくれなければ、私一人ではパニックになっていたかもしれません」


 松沢の声は微かに震えていた。五十嵐はそれを察知したが、敢えて触れなかった。


 「それが仕事だから」


 静かな一言だった。冷淡に聞こえるかもしれないが、それが五十嵐の持つ『距離感』だった。任務において感情に流されるのはリスクでしかない。それを何度も経験した彼女は、意識して距離を作っている。


 「……すみません。こんな夜中に」

 松沢が戸惑いながら頭を下げる。


 「謝る必要はないわ。ただ、感情を抱え込むと、この仕事は続かない」

 五十嵐はそう言い切った。松沢は黙って頷き、去って行った。五十嵐はその背中を見送りながら、自分がかつて抱えていた感情の揺れを思い出していた。


 自分が公安に配属されたばかりの頃、五十嵐自身も松沢と同じように戸惑いと葛藤を抱えていた。人間として正しいことと、公安として正しいことが必ずしも一致しない。国家安全保障の名の下に、時には他者を犠牲にし、非情な手段を取らなければならない。


 その現実に最初はひどく苦しんだが、いつしか彼女は感情を殺すことを覚えた。非情になることでしか、自分の心を守れなかったのだ。だからこそ、五十嵐は他人との距離を慎重に測っていた。それは孤独を意味したが、プロフェッショナルとしては必要な孤独だった。


 報告書を打ち終えると、五十嵐は椅子に深く腰を下ろした。天井を見上げ、一瞬だけ目を閉じる。頭の中に浮かぶのは、今日の張り込みで見た容疑者の家族の姿だった。無邪気に笑う子どもと、優しげな妻の姿。彼らがこの事件で巻き込まれる可能性があることを、五十嵐は既に予見していた。


 もし彼らが巻き込まれれば、自分たちの手で幸福な家庭を壊すことになる。それでも任務は任務だ。彼女はそのことを自分に言い聞かせた。


 外事第4課の扉が静かに開く音がした。住本健司だった。いつもの無表情だが、その奥にある鋭さと冷徹さを彼女はよく知っている。


 「ご苦労」

 住本は短く告げる。


 「報告書は先ほど送信しました」

 五十嵐の声には一切の感情がない。


 「松沢は?」

 住本が唐突に尋ねる。


 「精神的に少し揺れているようです。慣れるまでには時間がかかるでしょう」

 五十嵐は淡々と分析した。


 住本は少し考えたあと、小さく頷く。


 「君も昔はそうだった」

 その一言が珍しく人間味を帯びていたため、五十嵐はわずかに戸惑った。彼が彼女の過去を覚えていることが意外だった。


 「……今は違います」

 短く答える五十嵐に、住本はかすかな笑みを浮かべた。


 「だが、完全に割り切れる人間などいない」


 その言葉に、五十嵐の胸が一瞬だけ痛んだ。それは彼女が何年も前に封印したはずの感情の疼きだった。


 「今更感傷的になるつもりはありません」

 彼女の口調は普段通り冷静だったが、その奥に僅かな緊張があった。


 「分かっている。ただ、割り切れない部分があることを自覚しているから、君はここまでプロとしてやってこられた」

 住本はそう言うと、踵を返して部屋を出ていった。


 一人になった五十嵐は、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。住本の言葉が胸に残る。割り切れない部分。それを否定してきた自分がいる。しかし、完全に否定しきれないことも知っている。公安という組織で冷徹に任務を遂行してきた自分の中にも、まだ人間らしい感情が残っているのだろうか。


 その問いに答えを出すことは、彼女にはできなかった。


 気付けば夜が明け始めていた。窓の外に朝日が差し込み、室内に淡い光が満ちていく。五十嵐は静かに立ち上がり、窓際に近づくと外を見つめた。眠らない街が再び動き始めている。彼女の目には、ただ日常が映っているように見えたが、その瞳の奥に微かな揺れがあった。


 それは、彼女自身も気づかないほど微かな、かつての自分が残した傷跡だった。

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