『グレーゾーン』
その夜の東京は雨に濡れていた。霞ヶ関周辺はどこまでも冷たく灰色で、降り続ける雨粒が松沢陽菜の肩を静かに叩く。彼女は息を吐き、霞む街灯を見上げた。警視庁公安部外事第4課――その名を聞くと、多くの警察官は口を噤む。陽菜自身も、この課に配属されて以来、ほとんど笑うことがなくなった。彼女にとって外事警察は、想像以上に深く暗い世界だった。
傍らには倉田がいた。ベテラン刑事の彼は、小雨が降り注ぐ中でも冷静であるように見えた。その一方で陽菜は、自分の心が抑えきれない動揺に支配されるのを感じていた。
「松沢、落ち着け」
倉田の低い声が耳元で響く。陽菜は一瞬目を閉じた。
「大丈夫です」
彼女は短く返したが、自分の声が震えているのがわかった。視線の先には、暗い裏路地の先で住本健司が立っていた。彼は、灰色のトレンチコートの襟を立て、路地をじっと見据えている。その視線が捕らえているのは、暗がりの中に佇む女性の影――下村愛子だ。
陽菜は唇を噛み締めた。愛子は事件の協力者であり、危険な諜報活動に巻き込まれている女性だった。彼女を囮として使い、相手組織を追い詰める――それが住本の命令である。陽菜にはそれがどうしても納得できなかった。
「このやり方しかないんでしょうか」
思わず口に出てしまった言葉に、倉田が静かに答える。
「住本さんが判断したんだ」
「でも……」
陽菜は言葉を飲み込んだ。公安に配属されたばかりの頃、彼女には理想があった。警察官として正義を貫き、弱い人を守ること。しかし今の彼女は、協力者を囮にするという現実の前で、その理想が揺らいでいた。
「もし彼女が危険な目にあったら、私たちは……」
「それが俺たちの仕事だ」
倉田の口調には迷いがなかった。しかし陽菜には、その言葉が冷たく響いた。
住本が路地を歩き出す。陽菜と倉田はその後に続いた。
闇に包まれた路地に近づくにつれ、愛子の緊張した横顔がはっきりと見えてきた。住本は愛子の前で足を止めると、淡々とした口調で告げた。
「相手が現れたら、予定通り話を進めてください」
愛子が微かに頷く。陽菜はその横顔に浮かぶ微かな恐怖を見逃さなかった。
「私にはできません……」
愛子の呟きが聞こえ、陽菜の胸は締め付けられた。だが、住本は冷酷だった。
「あなたには選択肢はありません。全て我々が守りますから」
その言葉に愛子は何も言えなかった。陽菜は息を詰めた。愛子の姿が過去の自分自身の姿と重なる――弱さと恐怖を抱えた、かつて地域課で事件に巻き込まれた人々と。
「住本さん、もう少し配慮はできませんか?」
気付けば陽菜は口を開いていた。その言葉に、住本がゆっくりと振り返る。その瞳は暗く、冷たい。
「これは配慮の問題じゃない。国家安全保障の問題だ」
「でも……彼女は普通の人間です。こんなやり方をして本当にいいんですか?」
陽菜の声は震えていた。住本の瞳は一瞬だけ、僅かに揺れたように見えたが、それもすぐに冷たく硬化した。
「我々は個人の感情に振り回されるわけにはいかない」
陽菜は言葉を失った。住本がさらに続ける。
「君にはまだこの世界が理解できないかもしれない。しかし、我々が守ろうとしているのは、個人ではない。国家そのものだ」
その言葉が陽菜の胸に深く突き刺さった。国家という言葉はあまりに大きく、曖昧だった。個人の人生や幸福を踏み潰してでも守るべき価値がそこにあるのか、陽菜にはまだわからない。
住本が足早に立ち去ると、愛子は立ち尽くしたままだった。陽菜は無意識に愛子に近づき、声をかけた。




