小説断章 《赤い谷のスナイパー》
【1】戦場カメラマン
「あの女の子は……」
土の匂いがした。湿り、焼け、混ざった血の匂い。戦場に特有のあの生臭さに、彼は鼻が慣れるより先に心が鈍っていた。
土煙の向こう、燃え残る瓦礫の影で、少女は確かにいたはずだった。レンズ越しの彼女は、片膝を抱え、何かを強く握りしめていた。ぬいぐるみか、それとも、家族の写真だったか。
「彼女は、無事か……?」
返答はない。
【2】断崖下の突撃
「立てるか!」
男の怒声が鼓膜を突いた。主人公――古参の特殊部隊員、アラン・ブロディ中尉は、倒れかけた戦場カメラマンの体を起こし、再び肩を引いた。
「林まで走るぞ!」
彼は判断した。生存確率が最も高いのは、東側の雑木林。その背後には岩と起伏が続いている。遮蔽は取れる。
着弾。
「立て、行くぞ!」
機関銃の曳光弾が地を割り、男たちの影を追う。
【3】ペンタゴンの地下会議室
「現在、アフガニスタン山岳部にて、レンジャー第75連隊の1個小隊が墜落したMH-60に乗っていた」とCIA長官は語る。壁に掛けられた戦術マップには赤い×印。高度差2000メートル、アクセス不可能、遮断された通信。
「敵に包囲され、防戦を強いられているようです」
国防長官は口を結ぶ。
「自力突破は?」
統合参謀本部議長が答えた。「彼らは小隊規模、機動性重視のため軽装です。M120迫撃砲とスティンガー携行でしたが、墜落で無力化。弾薬は既に三分の一、補給品は最大で5日分。現時点で1.5日しか残っていない推定です」
長官が小さく呟いた。
「……1日か、2日。時間はない」
【4】狙撃手の接近
地面は乾いているようで湿っていた。朝露、冷気、腐臭。アスファルトのない山岳地帯では、這うという動作は拷問だった。
男は這っていた。腹を、胸を、顔を地面に擦りつけ、靴を脱ぎ、すべての音を消して。
距離800メートル。
最初の接触点から、丸3日かけてここまで到達した。
栄養補給は携行していたビスケットと塩、そして水筒の半分だけ。糞尿はすべて垂れ流し。皮膚は爛れ、虫に刺され、まるで火傷のような痕が顔に浮かぶ。
彼の名はコール・マクレイヴン。1959年に17歳で海兵隊に志願入隊。狙撃手としての適性は瞬時に見抜かれ、以後、生涯を一発の弾にかけてきた。
ハワイ第4海兵師団・第2大隊E中隊、訓練射撃Aコースにおいて248/250点。未だに破られていない。
「風速2.1、左から5度……」
呼吸が止まる。彼の周囲から音が消える。
銃声は、静寂を引き裂く、雷のように。
【5】鏡像
標的は、タリバン側の中隊を指揮する司令官。赤いヘッドスカーフに、無線機。着弾。
その瞬間、コールは光に気づいた。
500ヤード先、茂みの中に反射光。
狙撃手だ。相手もまた、彼を見ている。
「……勝負だ」
視界に光点、クロスヘアがわずかに揺れる。彼は先に、相手のスコープレンズの中心を撃ち抜いた。
金属と肉が砕ける音。
【6】像の谷
統合幕僚長が記者団に語る。
「奇跡的なことに、“像の谷”と呼ばれる山岳地帯にて、友軍を包囲した敵中隊が不明の狙撃チームにより1個中隊壊滅の打撃を受けた。5日間にわたり、敵の通信兵、指揮官を優先して狙撃し続けたとのことです」
「狙撃者の正体は?」
「未確認です。ただ、現地にいた兵士たちがこう証言しています。“何かが、遠くからこちらを見ていた。光でも、音でもない。静かな、恐ろしい目だった”と」
【7】再会
あの女の子はどうなった?
戦場カメラマンは、ようやく衛生テントにたどり着いた。担架の上、少女が包帯に巻かれながら目を閉じていた。
胸の中に小さな布人形を握りしめていた。
男は、レンズ越しにもう一度その顔をのぞいた。
かすかに、口元が動いた。
【終章の語り】
「戦争とは何か?」
それは銃弾の速度ではない。ヘリの数でも、装甲車の厚みでもない。
戦争とは――1発の弾で、世界を止める“眼”の存在だ。
谷に吹く風が、かすかに変わった。
誰もその名を知らぬスナイパーが、再び姿を消した。
【終】




