小説断章『陽の当たる場所にて』
キーワード:
忖度
文書改ざん
元官僚
――「忖度」とは、誰のための言葉だったのか。
午前十一時。東京・世田谷の瀟洒な住宅街。その一画に、目立たぬ黒塗りの車が音もなく停まった。サングラスをかけた男が運転席から降り立ち、建物の前に立つ。「相談役」と刻まれた表札が、白く陽に照っている。
佐山敬介。かつて財務省主計局のエリートと呼ばれ、国税庁長官まで務めた男だ。森友学園を巡る文書改ざん事件で、世間の憤りを一身に受けながらも、起訴はされず、責任も曖昧なまま退官した。今日の訪問先は、その退官後に顧問として籍を置いた「総合バイオ開発研究機構」。通称「バ研」。
男は静かに、そして躊躇いなく建物の中へ消えていった。
「あの人が、また……?」
二階のオフィスで書類整理をしていた事務員の女性が、そっとブラインドを開けて呟いた。社内には彼の存在が静かに、しかし確かに影を落としていた。
「いいのよ、見ないふり。誰も彼には逆らえないの」
隣の席の中堅社員が低い声で言った。バ研の実質的な資金は、自民党系の政商が率いる投資ファンドからの出資に依存していた。そして、そのパイプ役こそが、元官僚・佐山だった。
佐山の頭には、未だに「忖度」という言葉がこだまする。
忖度とは、かつて政権に仕える者たちの“美徳”とされていた。だがあの時、あの文書の数字を削り、表現を抑え、都合よく作り直した夜、彼の中に芽生えたのは恐怖ではなく、「誇り」だった。
「総理に近い人の意向を理解し、空気を読んで行動する」
それが、優秀な官僚の証だった時代。
だが、誇りは瓦解した。決裁文書の改ざんが表沙汰になった時、政府は彼をかばうふりをしながら、冷淡に切り捨てた。地検特捜部は本気で追い詰めなかったが、それも彼にとっては皮肉だった。罪は不問、だが信用はゼロ。国家の装置の一部として、彼の存在は使い捨てられた。
そして今、彼はここにいる。官邸にではなく、企業の会議室に。
午後。会議が始まった。佐山の隣には、財界から政界に影響力を持つ、かつての“森友関連企業”の元役員が座っている。政商・江原喜一。建設会社と教育財団を経営し、自民党の資金管理団体のスポンサーでもある男だ。
「佐山さん、次の補助金申請、通せそうですか?」
「財務省には口は利けませんが、文科の審査会には古い知人がいます。『規制改革』の名目で通せるかもしれません」
「さすが、佐山さん……現役時代と変わらない」
江原がニヤリと笑う。佐山は表情を変えず、目だけを細めた。
「ええ、現役の頃と違うのは、もう“責任”がないことです」
その夜。佐山はひとり、神楽坂の古びたバーにいた。ジャズが流れる静かなカウンター。グラスの中の氷が音を立てて砕ける。
「忖度って、あんたの言葉じゃないわよね?」
低く、くぐもった声が背後から聞こえた。振り向くと、かつての部下だった国税調査官・中村が立っていた。
「あのとき、上からの指示があったと、あなたは言わなかった。でも皆、わかってるんです。あれは政治家に“近い誰か”の指図だったって」
佐山はゆっくりと、グラスを口に運んだ。
「わかっていても、どうしようもなかった。守るべき組織が、すでに“自分を守る気”を失っていたからな」
「それでも、あなたは退官後、バイオ企業の顧問で悠々自適。多くの職員は、キャリアを潰され、精神を病んで……一人は自殺した」
中村の声は、静かに震えていた。
「その死の意味を、あなたは考えたことがありますか?」
答えはなかった。ただ、佐山の手元のグラスがわずかに震えた。
「……俺も、彼の葬式には行った。遺族の前で、何も言えなかった。ただ、頭を下げた」
「頭じゃなくて、真実を語るべきだった。官僚である前に、人間として」
「人間としての正しさが、組織の中では通用しない。それが、あの世界の真理だ」
「そんな真理を、いつまで守るつもりですか?」
佐山は黙ってグラスを置いた。
彼の瞳に、一瞬だけ、確かに“何か”がよぎった。
それが悔恨だったのか、誇りだったのか、それともただの疲労だったのか。中村には分からなかった。ただ、かつて憧れた「国家の背骨」は、今、陽の当たる場所で誰かの影になっていた。
【終】
財務省のエリート官僚だった佐山敬介は、森友学園を巡る文書改ざん事件で責任を曖昧にしたまま退官。現在は「総合バイオ開発研究機構」の顧問として、政商・江原喜一の補助金申請を手助けしていた。
かつて「誇り」だった政権への「忖度」は、政権による冷淡な切り捨てで瓦解。佐山は自身に責任がないことを感じながらも、組織の論理に支配された過去から抜け出せない。
退官後、元部下の中村と再会した佐山は、改ざん事件で犠牲になった同僚の死の真実を問われる。組織のために人間としての正しさを捨てた佐山は、中村の問いに答えられず、彼の表情には悔恨か、あるいは疲労か、複雑な感情がよぎる。




