戦場の青い空、そして泥と血の記憶
空が抜けるように青かった。こんなにも空が青いなんて、今まで気がつかなかった。雲ひとつない空。どこまでも透き通るような青。ここがカンボジアだということを一瞬忘れてしまいそうになる。タイゾウは無意識のうちにファインダーを覗き、フェニックスの葉の木漏れ日から覗く、美しい青に心を奪われ、シャッターを切っていた。いつもは息苦しいまでに蒸し暑い熱帯の空気も、なぜか今日は故郷日本の田園に吹く風に似ていた。肘までアーミー服をまくりあげ、襟元を緩め、ヘルメットのあご紐を珍しく緩めた。暖かい風があごの無精髭を撫で、襟元をはためかせ、二の腕に戯れながら、背中へと抜けていく。タイゾウはしばしファインダーから目を離し、自らの目で遠く空の彼方を見つめた。近視眼になっていた目が無限大の焦点に開放されていく心地よさを感じる。
俺はここに何をしに来ているんだろう。彼はぼんやりと考えた。美しいカンボジア。ここは戦場である前に、自分にとって数少ない家族同様の付き合いをする人々が暮らす国だった。
「今日は日がよすぎる。写真日和じゃないな。」
彼は独り言をぽつんと呟くと、くるりと振り返り、今歩いてきた道をまたぽつぽつと引き返した。
汗が目に流れ込んでくる。だが目はしっかりと見開いたまま、揺れるファインダー越しに被写体をしっかりと捉えていた。激しい衝撃が再び左半身全体を襲ってきた。右側によろめきながらも前の兵士の後ろを必死で追った。腰が引けているのが自分でも分かった。へっぴり腰で両手でカメラを支えながら、アヒルのように歩く姿は端から見ればはなはだ滑稽だろうと思った。すぐ左手の兵士が腰だめで連射するAK47の甲高い音と、ときおり交じる迫撃砲弾の着弾音で耳の鼓膜は悲鳴をあげている。タバコのフィルターなど何の役にも立たなかった。
カンボジア兵士Aが、叫ぶ。
「タイゾウ!あの木の茂みに飛び込め!」
タイゾウは、大声で応じる。
「OK!」
タイゾウは呼びかけてきたカンボジア兵の方をちらっと見て、大声で応じた。カメラは前方に向けたまま、シャッターを押し続けていた。背中の背嚢が背中で弾んだ。ショルダーベルトが肩に食い込む。よっぽどかなぐり捨てようかと考えたが、やめた。フリーランスのカメラマンはすべてを自分でまかなう必要があった。ここはジャングルの奥地の戦場だった。写真は撮るだけではなく、生きて持って帰らなければ何の意味もなかった。
不気味なほど静かだった。彼は一人道を外れ、小川の方に向かった。途中までパトロールの部隊に同行していたが、彼らも今日は早めにパトロールを切り上げ、引き返した。仕方ないので、彼は一人ジャングルの奥に分け入ることになったのだ。単独行で道を歩くことは極めて危険だった。彼はパトロールから別れた後、脇道に入った。なぜこんな危険な事をしてまで、戦場にいるのか。理由は単純明快だった。戦場を写真を通して世界に伝えたかったからだ。いや、本当はただ単に一旗揚げたいだけなのかもしれない。
「カサカサ……」
タイゾウはその場に立ち止まり、身をかがめた。瞬きひとつせず、音のした方向を注視した。50メートルほど先の、やや下った所の木々が不規則に揺れている。彼の心臓は早鐘のように鳴った。すぐに回れ右をしてここからスタスタと逃げ出したかった。だが、そうすればもしかしたら撮れるかもしれない絶好のシャッターチャンスを逃してしまう事になるかもしれない。彼の大きなターゲットの一つに、クメールルージュを至近距離で撮影することがあった。まだ、誰も成しえていない偉業だった。いや、彼が偉業と考えているだけで、他のフォトジャーナリストはきっと無謀な行為と捉えているだろう。彼はいつも一匹狼だった。
「カサカサカサ……」
揺れが大きくなったのが分かった。何かがそこにいる、そしてそれはこちらへ近づいてきている。彼は右手でカメラのボディをしっかりと保持し、左手でレンズのフォーカスリングをゆっくりと回した。目はファインダーを覗くことなく、前方を注視している。被写体を捉えるまでは、視野を広く持つ必要があった。広角レンズでない限りは、どうしてもファインダー内の視野は狭くなる。フォーカスをとるのが若干遅れるが、その分は長年の経験で、目測でほぼぴたりとフォーカスを合わせることができるまでになっていた。ファインダーを覗くことなく、だ。プロの中にもオートフォーカスを使えばいいという者も少なからずいるが、確かにプロの高性能機には優れたオートフォーカス機能が搭載されているものもある。だが、彼はそれを通常は使用しない。戦場という劣悪な環境下では、ハイテクの電子部品や精密機構はその信頼性を著しく低下させる。一瞬のシャッターチャンスを、しかも二度目があるかどうかわからないチャンスを確実に捉えることができるのは、己の目と指だと彼は考えていたからだ。人間の感性というものは、鍛え上げれば恐ろしいほどの能力を発揮する。彼は腰をゆっくりと地面に落とし始めるのと同時に、カメラを上へ持ち上げ、ファインダーを視線上に挙上した。
「ピーピー!」
現れたのはイノシシだった。まだ小さな白い斑点が残っている。日本でいえばウリ坊と呼ばれるくらいの大きさだ。緊張の極地に達していた全神経が一気に弛緩した。カメラを降ろし、腰を伸ばし、ゆっくりとその場に立ち上がった。すぐ後からもう一頭現れた。さらにもう一頭。彼はヘルメットを脱ぎ、額に粒のように浮き出た汗を拭った。
少し下ると小さな小川があった。先ほど見たイノシシの他に、ニワトリや小動物が何匹か水を飲んでいた。昼間にしては珍しい光景だった。彼はヘルメットを地面に置き、その上から腰を下ろした。穏やかな光景だった。ここカンボジアのジャングルは、人間が戦い合う戦場である前に、ここに住む動物たちの棲処だった。彼はカメラを持ち上げ、シャッターを切った。ファインダーを覗いているのに、いつもと違い、心は晴れやかだった。
「逃げるが勝ち」。まさにそういう状況は戦場において、多分に現れる。昨日の出来事もまさにそうだった。兵力にして約1個分隊、10名ちょっとの政府軍のパトロール隊に同行した。その日は初めてのパトロールルートだった。そういうときは兵士の誰もが緊張しているのが、手に取るように分かった。開けた場所を散開隊形でゆっくりと前進している時だった。あと100メートルほどで、前方に見える林へ入ろうとしている、その時。先頭を歩く兵士のそばで火柱があがった。一斉に周りの兵士はその場にはいつくばった。地雷を踏んだのか。誰もがそう思った。新たなルートを行くときには、覚悟しなければならないリスクだった。ある程度は敵の地雷原情報は把握しているが、捕虜や捕獲した資料からのデータであるため、その範囲と質において完全なものとは言い難い。踏んだ兵士が運が悪かった。こういうときは、誰もが自分じゃなくてよかったと心の中で密かに感じていただろう。今日はここまで。今歩いてきた足跡をたどって、ゆっくりと後退するだけだった。だが、彼らの耳に飛び込んできたのは意外な音だった。
「ヒュルルルル!」
ゆっくりと立ち上がろうとしていた兵士たちは再び地面に突っ伏した。
カンボジア兵士Aが、叫ぶ。
「80ミリだ!」
「ダダダダダ!」
誰かが、撃ち始めた。それに続いて他の兵士たちも連射を開始した。敵も確認できていない。目くら撃ちだった。だが、次々と落ちてくる迫撃砲弾の雨に次第に散発的となり、最後には80ミリ迫撃砲弾の音にかき消された。いたるところで悲鳴が聞こえ始めた。
こうなっては、打つ手は一つしかなかった。はいつくばったままいても、全滅を待つだけだった。分隊長がすでに被弾して、重傷を負ったようだった。曹長らしき兵士が後退を命じる大声で叫びながら、手を後ろに振った。兵士たちはいっせいに立ち上がり、全速力で元来た方向へ駆け出した。地雷原であることを忘れているかのように、足跡など気にせずにみな必死の形相で駆けている。
まさにシャッターチャンス。タイゾウは、一緒に駆けながらもときおり後ろを振り向き、シャッターを切った。兵士たちの後方に、ここかしこで白煙があがる。いい写真が撮れる。不思議と怖さは感じなかった。砲撃に加え、50ミリ重機関銃の銃弾の雨が降り注ぎ始めた。もはやファインダーを覗くことは不可能だった。カメラを両手で右前方に構え、地を這うような低姿勢で後退し、振り向きざまにシャッターを連続して2回切る。被写体は目測、フォーカスは勘だった。首筋と両脇下から冷や汗が流れるのが分かった。ここが正念場だ。タイゾウは歯を食いしばり、恐怖と戦いながら、シャッターを切り続けた。
銃撃と砲撃がさらに激しさを増してきた。もはやシャッターを切る余裕はかけらもなかった。銃を肩にかけたまま、両耳を手で押さえ、何か訳の分からないことを叫びながら、半狂乱で両目さえもつぶり、よたよたと走っていた兵士が道端のヤシの木に激突し、その場で失神した。誰も助け起こす者はいなかった。前方に塹壕らしきものが見えてきた。彼はそこに飛び込もうと方向を変えた。あと10メートルというところで、ものすごい音と衝撃を背中全体に感じた。無意識のうちに右手でヘルメットを押さえ、膝を曲げ身を低くした。カメラはしっかりと左手で保持している。歯は食いしばっていたが、口はかろうじて開けていた。迫撃砲弾の爆風で鼓膜をやられないためだった。バランスを崩し、前方に倒れ込んだ。後は無我夢中で這った。塹壕だと思っていたのは、砲弾の着弾跡だった。深さは1メートルもなかった。すでに先客がおり、彼はその男の上に覆いかぶさるように伏せた。パキスタン兵はジロリとこちらを睨んだが、すぐに脇に寄り、彼を空いたわずかな隙間に引きずり降ろした。かろうじて、地面より下に身を隠すことができた。掩蓋はないが、迫撃砲弾や銃撃からは一応身を守ることができる場所だった。もちろん直撃を喰らえばおしまいだった。依然として銃撃音と迫撃砲の砲撃は続いていた。何発か近くに着弾したが、次第に散発的となり、やがて静かになった。不気味な静寂が周囲を覆った。どこからか人のうめき声が聞こえる。タイゾウは、声の方角を覗こうとした。銃弾の雨が降るのと、右手を強く引っ張られたのはほぼ同時だった。パキスタン兵がタイゾウの顔を見て首を横に振った。パキスタン兵は微動だにせず、虚空を見つめている。大きく見開かれた眼差しと、その白と黒のコントラストが、この国の仏像の顔をふっと思い起こさせた。彼の左手はしっかりとタイゾウの肩を掴んだままだった。彼は全身で何かを感じ取ろうとしているようだった。
誰もが弛緩していた。兵士たちはぼんやりと周囲を見回している。先ほどの状況が嘘のようだった。あたりの空気にはまだ硝煙が薄ぼんやりと漂っている。銃を胸に捧げ持ちながら呆然としている者、背中に背負っていた通信機器を降ろし、その上に座る者、中には銃を背中にかけたまま、両手をポケットに突っ込みその場に佇立する者。究極の緊張の後に訪れた麻薬的カタルシスだった。タイゾウはヘルメットの縁に手をかけ、音のする方向を何とはなしに見上げた。航空支援に駆けつけた攻撃ヘリはすでに引き上げていた。警戒用のヘリが1機だけ頭上を周回飛行していた。後方の林にはまだ黒い煙が漂っている。タイゾウは魂の抜けたような体でただぼんやりとそのヘリを眺めていた。砲弾跡に一緒に身を伏せていたパキスタン兵が肩を叩いた。
「イッツオーケー。」
タイゾウは軽く笑って応えた。周囲にバラバラと散開していた兵士たちが、生き残った指揮官の号令により次第に陣形を整え始めた。やがて何事もなかったかのように小隊は再び森へと前進を開始した。すでにヘリにより後退させられた、我々を十字砲火で釘付けにした敵軍の死体の確認が今日の残りの任務となった。今日もなんとか生き残った。
ボディカウントが一段落すると、小休止となった。タイゾウは胸のポケットのボタンを外し、中からマルボロの箱を取り出した。一緒に何かをつまんだ。プレスカードだった。免許証のように写真が貼ってある。きちんと髪を整えた、スーツ姿の自分だった。日本を思い出した。異境の地であることを痛切に身に感じた。泥に汚れた膝の上で、その白いカードは不思議なほど現実離れして浮き上がって見えた。両手で囲うように挟んで握ったそのカードが、見ている目の前で消えてしまうのではないかという不安に襲われた。このカードが自分の拠って立つ場所であり、自分の生まれ故郷日本とのつながりの証であり、ここへ来ている理由だった。周りの兵士たちと姿格好では見分けがつかないくらいここに溶け込んでいる。完全に彼らと同化してしまうのではないかという不安が彼にはあった。彼は自分の立ち位置を改めて自覚した。自分は銃の代わりにカメラを持つ、プレスカメラマンなのだと。そして日本人なのだと。
高い葦の草地に風が渡った。心地いい風が頬を撫でる。タイゾウはヘルメットのひさし越しに鋭い眼差しで前方を見つめた。薄く伸びた口髭が風に揺れる。微動だにしないその佇立した姿は、戦国武将の出陣の姿に似ていた。タイゾウは従軍することは基本的にやめることを決意した。単独行。これが本来の自分の姿であることに気づいたからだ。ゆっくりとカメラを視線上に持ち上げると同時に、カメレオンのようにゆっくりと片膝をつき、姿勢を落とした。ファインダーにターゲットを捕らえた。ここにきて初めて遭遇した本物の獲物だった。望遠を持ってこなかったことを後悔したが、もう少し引き付ければ兵士の顔を識別できる写真を仕留めることができる。彼の精神は鋼のように研ぎ澄まされた。ファインダー内でターゲットが鮮明に焦点を結んだ。
「カシャカッシャ!」
タイゾウは手応えを確認すると、そのままの姿勢でゆっくりと後退していった。
タイゾウは木の影でじっとしていた。闇の中、カメラを手に先に広がる空間を凝視している。ここまで最前線を単独で突き進んできた。今回は今までと違い、完全にターゲットを絞った計画的行動だった。行き当たりばったりの彼の性格からは珍しいことだった。装備も可能な限り万全を期した。ギリギリ日帰りの行動計画だったが、3日分の食料、水、そしてもしもの時の医療品を携行していた。ザックのショルダースリングが肩に食い込んだ。休むことなく目的地まで強行行軍した。そして今、目の前にターゲットを捉えている。クメールルージュと見られる最前線の拠点だった。約100メートル前方に有刺鉄線が見える。そしてその向こうに10メートルほどの高さの簡単な物見櫓状の監視塔が見えた。タイゾウは高感度フィルムが装填されているのを再度確認すると、ゆっくりと木の幹から体を乗り出し、200ミリの望遠レンズをターゲットに指向した。満月の夜だった。ファインダーの中で櫓の上の兵士の姿が像を結んだ。数枚のカットを撮影した。彼は心の中でほくそ笑んだ。こいつはかなりの値段で売れる。意外にも最初に浮かんだ考えは、名声、羨望といったものではなく、卑近ではあるがマネーだった。すでに彼のわずかな活動資金は底をついていた。UPIか共同でこいつを高く買い取ってもらおう。今回は日本に送って、買い手を探している余裕はなかった。
タイゾウはもう少し接近しようと立ち上がろうとした。彼が持っている最大の望遠レンズである200ミリでは、やや距離がありすぎた。兵士の表情をぜひとも捉えたかった。このようなチャンスは次にいつ訪れるかわからない。月が流れる雲に遮られ、周囲が漆黒の夜闇に包まれた。今だ。彼はそっと一歩足を前に踏み出した。
「ポーン」
という不思議な音が聞こえた。タイゾウはその場で動きを止めた。
「パーン!」
という弾けるような音とともに、まばゆいほどの光が頭上で輝いた。照明弾だった。ワイヤーを引っ掛けたのか。彼は凍り付いた。
「ドドドド!」
という腹に響く連射音がした。すぐ手前の土塊が弾け飛び、こちらに一直線に近づいてきた。全身の筋肉をバネのようにして、タイゾウは身を翻し、今いた木の幹に体を滑り込ませようと反転させた。弾幕はついに彼の元に到達した。太い幹がザクロのように砕け散った。タイゾウは右肩に殴られたような衝撃を感じた。とっさに左手で肩を覆った。生暖かいものが手に触れた。激烈な痛みが彼の脊髄を襲った。意識が遠のきそうになる中、彼は口を歪め、歯を必死で食いしばり、意識を覚醒させた。ここで倒れれば、終わりだった。彼の本能がそう叫んだ。彼は駆け出した。弾幕が今いた木の幹をズタズタにしていくのが目に映った。彼はその向こうの監視塔に目をやった。必ずまた来る。彼は判定負けを喫したボクサーがリングを降りるとき、勝者に向けた眼差しのように鋭い視線をそこに投げかけた。生きていれば次の戦いで勝つチャンスは訪れる。彼は背中で銃撃音を聞きながら、後退した。
気がつくと、朝だった。朝露が頬を濡らしている。草むらに倒れ込んだ後、気を失いそのまま眠ってしまったのだった。周囲をサッと確認した。すでに前線からは距離のある場所のようだった。彼は再び身を横たえた。肩の傷が疼いた。幸いにも出血は止まっていた。だが、かなりの血糊が左の袖を濡らし、すでに大半が乾いているためごわごわとなっていた。朝霧が周囲に漂っている。小鳥の鳴き声が聞こえる。平和なこの国の朝の静けさだった。彼は生きていることを実感した。傷の手当てもしなければならなかった。だがタイゾウはしばらくこの静けさの中で身を委ねていたかった。背中を曲げ、膝を折り、腕を組んで、胎児のように横たわっていた。母親の胎内にいるような安らぎを覚えた。
それは一瞬の油断だった。まさかこんな場所で。彼は強烈なパンチをボディに喰らい、マットに沈んでいくボクサー。流れていく視界がぼやけてくる。すでに目は焦点を結んでいない。青と緑と茶色がモザイク状に渦巻く世界。それが渦潮のように巻き、流れていく。マットに倒れ込む。レフェリーがテンカウントを始めるのが見える。彼は口を開く。「OK、OK」と言うつもりが声にならない。「シックス、セブン」。カウントは無情にも淡々と続く。テンカウントが近づいていく。彼の口は半開きとなり、わずかに震えるだけ。口元からヨダレが落ちる。「エイト、ナイン」。彼は最後の意識、いや魂を振り絞って、ファイトポーズを取ろうとする。彼は右手でしっかりと握られていた黒く鈍く光るそれを持ち上げた。そのものの中央で黒く大きな別の瞳がキラリと光る。タイゾウの目は虚空を漂っている。だがタイゾウの魂はその黒き、小さな金属の箱に乗り移り、彼の右手を挙上させる。黒き大きな瞳は、レフェリーのまさに振り下ろさんとするテンカウントの手を捉えた。タイゾウの左手が愛機ニコンF-35のレリーズボタンを捉えた。レフェリーの手はまさに振り下ろされるその一瞬で、スチルカメラのフィルムの中に焼き付けられ、その動きを停止させられた。間一髪だった。
タイゾウは次第に戻りつつある意識の中、懐に手を入れた。再び現れた彼の手の中には、大きな穴が穿たれたバックアップ用のキャノンがあった。死んでもカメラを離さない。彼が信条としている事が実戦できたという安堵と、また一つ命を拾ったという悟りが彼をまた再び夢の国へと誘った。最後に残った記憶は、友軍兵士が覗き込む顔と、ショルダースリングを強く引っ張られ、引きずられていく感触だった。
彼は見守ることしかできなかった。世話になっている宿の主人がMPに両腕を掴まれ引きずられていく。タイゾウはその男の女将さんとその子供の肩を引き寄せた。泣きじゃくる男の子と不安そうに見つめる女将さん。並々ならぬ世話になっている彼らになんとかここで役に立ちたいという思いが彼の脳裏を駆け巡る。だが、彼ら自身も周りをMPに囲まれ身動きがとれない。呆然とした表情でタイゾウも事の成り行きを見守るしかなかった。宿の主人はMPを相手にしきりとなにかを訴えていた。タイゾウのいる位置からはその内容を聞き取るには距離がありすぎた。次第にご主人を引き連れていたMPの態度が硬化していく様子が見てとれた。タイゾウはまずいことになりそうな胸騒ぎがした。彼は一歩前に出た。すぐにヘルメットをかぶり自動小銃を持つMPに行く手を塞がれた。なおも前に出ようとすると、カンボジア語で「下がれ、下がれ」と胸を銃で小突きながら、甲高い声で喚いた。タイゾウは主人から視線を離すことなく、男の子を抱きしめた。周りの人だかりも一段と増えてきた。半分は心配そうな顔をした人たち、半分は他人におきた不幸を物見遊山で見物する輩だった。20メートルほど先でMPと口論をする宿のご主人の姿が兵士の影に隠れた。カンボジア兵の中でもやや大柄な下士官クラスと見られるその男の両手で握られていた自動小銃の銃床が左から右へと振り抜かれた。ドサッと倒れる人影と飛び散る鮮血がここからでも見えた。タイゾウは男の子の視線を胸で遮った。女将さんの小さな悲鳴が聞こえた。タイゾウは男の子を女将さんに託すと、MPの制止するのも構わず飛び出していった。撃たれても構わないと思った。今動かなければ一生後悔すると思った。
土手沿いで激しい戦闘が繰り広げられていた。政府軍兵士は射面に腹ばいになり、頭だけをわずかに出して、小銃を連射している。無蓋トラックで移動中のコンボイが待ち伏せ攻撃にあったのだった。土手の上で緊急停車したトラックの荷台には、血だらけになった兵士の死体が見るも無惨に横たわっている。中には息のある兵士もあり、こちらに向かってあえぐように助けを求めていた。だがどうすることもできなかった。小隊はすでに襲撃された時点でその半数を失っていた。
「ヒュルヒュル……」
という不気味な音が聞こえてきた。迫撃砲弾だった。タイゾウの目の前の無蓋トラックが炎に包まれた。先ほどまでうめき声の聞こえていたトラックだった。次第に政府軍がジリ貧になってきているのが分かった。タイゾウは夢中でシャッターを切った。ここで全滅という事になったとしても、フィルムに自分の最後の仕事の結果を残したかったという思いが恐怖を忘れさせた。土手の反対側で応戦していた兵士の一人がたまらず、土手を横切りこちら側に飛び出してきた。タイゾウは無意識にレンズを向けた。彼がジャンプしてこちら側の土手に飛び込もうとするのと同時に、彼の後方で火炎があがった。その兵士は足をすくわれるようにして宙に舞った。ファインダー越しに、スローのコマ送りのようにその一連の光景がタイゾウの網膜に映し出された。同時にその映像はカメラのフィルムにも焼き付けられることとなった。これが、翌週の「タイム」の表紙を飾ることになった。奇跡的にも近くを移動中の米軍のパトロール隊が救援に駆けつけてくれたため、土手を飛び越えてきた男を含め、小隊は全滅を避けることができた。タイゾウは命を一つ繋ぎ止め、カメラマン人生初の「タイム」紙の表紙を飾るショットを撮ることができた。
だがタイゾウは思った。撮りたいと思って、撮りたい写真が撮れるわけじゃない。そのチャンスは、ある日突然向こうからやってくる。それが訪れるのをただ辛抱強く待つ。タイゾウは、宙を飛ぶ兵士の写真が大写しで印刷された「タイム」紙を、故郷の住所が書かれた封筒にそっと入れた。
「しっかり飲めよ。」
タイゾウは心の中で呟いた。日本のビールが飲みたかっただろうけど、これで我慢してくれよな。タイゾウは泥だらけになった手で、先ほどまで汗だくになって築き上げた土塚にカラメル色のビールを注ぎかけた。靴も服も顔も頭も泥だらけだった。滴る汗と涙を拭いながら、タイゾウはそのカメラマンのために祈った。UPIのカメラマンだったその男は、何かにつけフリーランスの無名カメラマンのタイゾウのことを気にかけてくれていた。カンボジアに入国したばかりの時、偶然に知り合った彼は、タイゾウにカンボジアでの宿の手配、軍との交渉、生活物資の入手方法に至るまで、事細かなことを支援してくれた。何よりも一番は、カンボジアでの戦場での生き残り方を教えてくれた。タイゾウにとって異国のカンボジアで唯一の心の友が、宿の女将さんとこの陽気なアメリカ人カメラマンだった。その彼が自分より先に逝ってしまった。有能で、慎重なカメラマンだった。その男が戦場で倒れた。タイゾウはいずれ自分もと思った。空になったビール缶を塚の上に墓標のように立てた。
彼はクリスチャンだった。タイゾウは聖書の一節を思い出そうとしたが、無宗教のタイゾウには無理な話だった。彼は仕方なく、何かの映画の一シーンで記憶していた言葉を捧げた。「塵は塵に、灰は灰に……」。後は忘れてしまった。タイゾウは残っていたもう1本を開けて塚に向かって乾杯をすると、一気に飲み干した。アルコールなど普段口にしたこともないタイゾウは一気に酔いが回り、その場に横たわった。傍らからあの陽気なアメリカ人の友が笑いかけ、「ヘイ、タイゾウ」と言いながら、肩を叩いてくるのではないかと薄れゆく意識の中で感じながら、まどろみに落ちていった。




