断章「可視化された恐怖」
羽田空港国際線ターミナル、午前9時。
セキュリティゲートに並ぶ乗客の列は、沈黙に近い落ち着きを保ちながら、徐々に進んでいた。
カラフルな検知装置が、複数のレーンに等間隔に配置されている。
正面に設けられた「差し込み口」には、乗客が一本ずつペットボトルを挿入していく。
ピンポンという柔らかな音とともに、緑のランプが点灯した。
その下には、黄・赤のインジケーターも見え隠れしている。
この装置は簡易型爆発物検知器だ。
液体爆弾に使われる過酸化水素を、近赤外線で非破壊検査する。果物の糖度測定に使われていた民生技術を、ある検査機器メーカーが転用したものだ。
「いまや国内の主たる空港にはすべてこの装置があります。感度も十分に上がっている」
そう報告したのは、公安課長だった。
背後のモニターには、「リアルタイム検出中」の文字が流れ、数値データとスペクトルが表示されている。
「課長、爆破予告の件だが、対処は万全か?」
公安部長の声は静かで、それだけに圧がある。
「はい。従来の爆薬探知器に加え、最新のイオン分光測定式センサーを導入済みです。爆薬に含まれる微量の揮発性成分──たとえばニトロ基や硫黄酸化物──に反応するもので、きわめて高感度です」
「誤検出は?」
「当然、頻発しています。昨日は新婚旅行のカップルが搭乗直前、地元で爆竹を浴びた衣服が反応し、搭乗を拒否されました。あのような“陽性誤差”は、今や日常茶飯です」
「原因は?」
「爆薬マーカーと呼ばれる混入義務成分だけでなく、日用品由来の成分まで検出対象としているからです」
公安部長は額に手をやった。
「たとえば?」
「黒色火薬由来の二酸化硫黄、ニトログリセリン由来のNO₂ガスなどです。これらは、爆薬に特有ではあるが、日常品にも含まれます。マッチ、農薬、工業用洗浄剤、香料にすら微量ですが検出される。先週、ある中年男性が空港トイレでマッチを一本擦った直後にセンサーが反応し、搭乗便がキャンセルされました」
「……なんということだ」
「さらに懸念されるのは、**ANFO爆薬(硝安油剤)**です」
「それは、簡単に作れるやつだな」
「はい。肥料の硝酸アンモニウムと軽油を混合するだけ。発破業界でも現地混合方式で広く使われています。しかも、製造に特別な技術はいらない。雷管だけでは起爆しませんが、起爆用のダイナマイト1本があれば十分です」
「規制はあるのか?」
「ありません。軽油も硝安も合法ですから」
公安部長は無言でモニターを見つめた。
そこには、ペットボトル飲料の列に並ぶ小学生とその母親の姿が映っていた。
爆薬とはまるで関係のない、だがセンサーには一様に“反応するかもしれない”人々。
「……可視化された“可能性”が、現実よりも大きな恐怖を生む」
誰かがそう呟いた。
その日の午後、警視庁本庁舎――
「理事官、これを……ご覧ください」
記事の見出しは刺激的だった。
《成田テロ未遂容疑、都内在住の男逮捕。イスラム系カフェ経営者か?》
横には顔写真。フルネーム。店名。電話番号。家族構成まで掲載されていた。
「これはなんだ……? 情報ソースは?」
「……公安提供です」
「バカな!」
理事官は机を叩いた。
「この男は何者だ!?」
「都内で喫茶店を経営するイエメン出身の男性です。入国歴は10年を越え、違法行為の記録も、過激思想の兆候も、いっさいありません」
「どうして彼が?」
「ある匿名通報です。爆発物を所持していた可能性がある、という」
「その結果、彼は何を失った?」
「店は閉鎖され、顧客も離れ、家族は引っ越しを余儀なくされました。……誤認だったと分かったのは、取り調べから48時間が過ぎた後です」
「誰が内定をした!?」
「……担当は公安第三課です。課長には、すでに厳重注意を……」
「“注意”で済む問題じゃない!」
理事官の声は低かったが、机の上の紙束がわずかに震えた。
「個人の生活を破壊し、無関係な市民をテロリストに仕立て上げたんだぞ? それが“セキュリティ”か? これはただの、国家による無責任な暴力だ!」
その翌日。
閉鎖されたカフェの前で、取材記者がカメラを回していた。
シャッターには手書きの紙が貼られていた。
「私の名前は間違って使われました」
「この国で、静かにコーヒーを淹れていたかっただけです」
――A. ハサン
静かな文字だった。
だが、その文字が語るものは、誰よりも雄弁だった。
そしてその傍らでは、空港の検知装置が今日もピンポンと音を立てて、緑の光を点滅させていた。