眠らない街の獣
新宿の夜は、文字通り眠らない。どぎついほどのネオンサインが視覚を過剰までに刺激し、人の精神を麻痺させるような雑踏の雑音と、それに入り交じる人の声、声、声が、空気そのものを振動させている。呼び込みのボーイの手が四方八方から投げかけられる中、真田は着崩したアロハシャツの襟元を開き、蒸し暑いヒートアイランド東京の歓楽街を漂った。視線をどこに向けるともなく、ここに集まる欲望を抱いた男たちの群れの中の一人として、この街に潜行した。メインストリートの光の帯からそれ、路地へと入り、薄暗い小橋の袂へと分け入っていく。いつもの巡回コースだった。
橋の欄干の両側には、原色に彩られた派手なミニのワンピースを着た娼婦たちが立っている。彼女たちは、慣れた様子で通り過ぎる男たちに視線を投げかけるが、真田は声をかけてこない限りは見逃すつもりだった。
「おにいさん。ホテル、二万円、OK」
新人らしきアジア系の女性が、おずおずと真田に声をかけてきた。彼女は今日、あまりついていないようだ。真田の顔には、警察官特有の、近寄りがたい雰囲気が漂っているにもかかわらず、それに気づかない。
「おお、だいじょうぶ。ホテル近い。」
女は、その放漫な胸を押しつけんばかりの距離で真田の肩に蛇のように右手を絡ませながら、妖艶な微笑みを浮かべ、誘いをかけてきた。真田は職務質問を続けようとした、その時だった。
「すんません。こいつ新人なもんですから。おい、お前こっちにこい!あいつはポリだ!よく覚えておけ!」
チンピラ風の男が自転車に乗って慌ててやってきた。この女たちの手配師だろう。男は、真田の顔を一瞥すると、即座に娼婦を引き離そうとした。
「嘘でしょう。一斉摘発は明日だって聞いた。」
立ち去ろうとした真田の耳に、娼婦の一人が呟いたその一言が飛び込んできた。彼は、はっとしたように踵を返し、来た道を引き返す。
「誰から聞いた?一斉が明日だって?」
真田は穏やかな口調で、手配師の男の肩に手を回し、友人に話しかけるように質問した。だが、その言葉の後ろには、有無を言わせない威圧感がはっきりと感じられた。男は黙ったままうつむいた。真田は相手の肩をぽんと叩いて、一言言った。
「風営法の現行犯だ。」
男は顔色を変え、震える声で訴える。
「脅かさないでくださいよ。」
真田は表情を一変させ、"サツ"の顔になった。相手の襟首を掴み、ぐっと引き寄せ、もう一度言った。その口調は、次に同じことを繰り返せば、容赦しないという明確な意思を示していた。彼の目は、獲物を捕らえる肉食獣のそれだった。男は完全に怯えきり、何も言えなくなった。真田は、手配師と娼婦たちをその場で現行犯逮捕し、管轄の警察署へと連絡を入れた。
逮捕手続きを終え、真田は次のターゲットへと向かった。入管法違反の外国人を匿っている、という匿名の通報があったのだ。真田は、その情報を確かめるべく、とあるアパートの一室へと足を運んだ。
「はい、宅配便です。」
真田は、インターホン越しに声をかけた。しばらくの沈黙の後、ガチャリとドアが開く音がした。ドアが開いた途端、真田はすかさず右足を間に滑り込ませた。驚いた女は短い悲鳴をあげると、そのまま部屋の中へ後ずさった。真田は間髪おかず中に踏み込んだ。最初の見たものは、意外な人物の顔だった。
「松岡…」
そこにいたのは、同僚の松岡だった。全裸の姿で、二段ベッドの上段から目を丸くして身を起こした状態だった。松岡は真田の顔を見ると、慌ててベッドから飛び降りた。
「警部!ちょ、ちょっとちょっと待ってください!ね、どうぞ上がってください!」
パンツ一丁の姿に、よれよれになったジャージのズボンと上着を慌てて着ようと、松岡はベッドから飛び降り、あやうく柱につまずいて転びそうになった。たるんだ腹を揺らしながら、汗ばんだ体をてからせながら、下卑た笑みを浮かべ、真田のほうに近づいてきた。
「ビール、ねぇ、ビール飲みます?彼はメガネの蔓を歪ませながら、ジャージの上着を頭から通すと、そのまま真田の横を通り、冷蔵庫のほうに小走りで走っていった。狭い部屋の中は、食べ散らかしたスーパーで買った弁当や菓子袋が散乱している。ビールの空き缶がカーペットの上に転がり、至るところにシミを作っていた。女は下着姿のまま両手で胸元を隠し、部屋の隅でおびえたような表情で固まっている。天井から吊るされた洗濯物に顔を撫でられながら、松岡は冷蔵庫の扉を開け、中から缶ビールを二本取り出し、真田に勧めようとした。真田は、机の上に置かれた封筒からはみ出した万札を手に取った。
「摘発情報を流した見返りがこれか。」
真田の低い声が、部屋に響いた。松岡の顔から、下卑た笑みが消え失せる。
「警部、ねえ、こいつらのこと、かわいそうだと思いません?ねぇ。ブローカーから何百万も前借りして、その借金返すのと、家族に送金するのとで大変なんですよ。」
松岡は愛想笑いを浮かべながら、机の上に転がっている食べかけの菓子袋を払い除け、缶ビールを真田の前に置いた。
「まあ、どうぞ。なんでもかんでもパクればいいってもんでもないでしょう?それに警部。こいつらパクっても、売春なくならないんじゃないかな。」
松岡は神妙な顔になり、訴えかけるような目つきで真田に言った。真田はポケットに手をつっこんだまま、壁に背をつけ、虚空を見つめていた目を松岡にきびしく向け、平然とした口調で言った。
「入管法、難民法で引っ張る。西尾巡査部長は収賄容疑だ。」
松岡は一瞬何かを言いかけようとしたが、そのまま口を噤み、タガログ語で女に何か話しかけると、真田に「わかった、わかった」という仕草をして女に服を渡し、準備をさせようとしたかに見えた。だが、ハンガーから服を掴んだかと思うと、いきなり真田警部補に向けて投げつけた。
「逃げろ!逃げろ!」
松岡は女を玄関から逃がすと、自らは女とは反対の、屋上へと続く階段を駆け上がった。真田は落ち着いて松岡を追った。松岡はすぐに屋上に追い詰められた。松岡は、そこら中にあるものを投げつけた。テレビアンテナをへし折り、真田に突き出した。真田は片手で払ったが、アルミパイプの一本が真田の額を刺した。鮮血が滴り落ちる。
「お前な!所轄の防犯ってところはな、キャリアのいるところじゃねえんだよ!おら!迷惑なんだよ!え!?わかってんのか!『新宿鮫』なんて言われていい気になってんじゃねえぞ!」
松岡の醜悪な叫びが、新宿の夜空に響き渡った。真田は流れる血をものともせず、静かに松岡を見据えていた。
新宿の繁華街は、夜が深まるにつれて、その喧騒を増していく。路上には、堂々とヤクザ風の高級外車が止まっている。一車線を塞いでいるため、一般車両の通行を妨げ、大渋滞を引き起こしていた。真田は、その車の前に静かに立つ。
「おい。ここで車を止めて寝るつもりなのか。駐禁だぞ。降りろ。」
真田が窓を叩くと、車の中から不機嫌そうな声が返ってきた。
「なんだテメェ。交通課か。すっこんでろ。」
咥え楊枝にサングラスをしてドライバー席に座っていた男は、窓越しに首を突っ込んできた真田をちらりと見ると、電動ガラスを上げた。真田は車から離れ、距離をおいた。腰から特殊警棒を引き出し、間髪を入れず、サイドガラスを思い切り叩き割った。粉々に砕けたガラス片が、そこら中に飛び散る。
「なんだ!この野郎!」
いきなりの真田の行動にぶち切れたヤクザは、ドアを開け、外に飛び出した。真田は殴りかかろうとしたその男の手を特殊警棒で叩き落とすと、続いて助手席から降りてきた相棒の突き出した飛び出しナイフを右足で蹴り飛ばした。そのまま二人を車のドアにねじ伏せた。あっという間に、ぐうの音も出ない状態に押さえ込まれ、男は吐き捨てるように言った。
「おいおい。ちょっとやりすぎじゃねえのか。こんな公衆の面前で。マル暴でもこんなことはしないぜ。」
泣きを入れるヤクザほど情けないものはなかった。相棒の男は、ナイフを蹴り飛ばされた衝撃で足を引きずりながら、もはや戦意喪失していた。
「公務執行妨害と銃刀法違反の現逮だ。」
真田は手錠を取り出すと、手際よく二人を車のドアノブに括りつけ、何事もなかったかのように店の中へ入っていった。新宿の夜は、今日も真田によって、その秩序が保たれていく。彼の行動は、時に常識を超え、予測不能なものだが、それこそがこの街で生き残るために必要な術なのだ。彼の背中からは、微かな血の匂いが漂っていた。額の傷からは、まだ血が滲んでいる。だが、彼の眼差しは、一切揺らぐことなく、新宿の闇の奥を見据えていた。




