小説『空の断層』 ――「飛ぶ者たちの、揺れ動く矜持」 改訂版
滑走路に降り立った機影を見て、誰もが言葉を失った。
垂直尾翼には黄色い縁取りの赤い番号。そして、中央に刻まれた蛇のマーク。
「ああ……あいつらだ」
新田三尉が小さく唸った。
誰が呼んだか、「亡霊の教官部隊」。飛行教導隊、通称アグレッサー。航空自衛隊内でも異端中の異端。Fではなく、T。それでいて、その戦術能力はトップガンの名を欲しいままにしている。
格納庫の陰で一人の整備員が呟いた。
「なんでまた、冷戦時代の迷彩で来るんだよ……もう2025年だぜ」
迷彩柄のF-15。ノーズには黄枠の赤番号。デジタルステルスの時代に、あえて旧式塗装で挑んでくる。
それが彼らの“流儀”だった。
第1節:1124Fの誇り
新田は最初、配属先を聞いたとき、耳を疑った。
「――ブルーインパルス? 冗談でしょ……」
いや、そうじゃない。本人は笑っていなかった。むしろ、声を押し殺して怒っていた。
1124F。それは戦闘機パイロットの勲章。
一方、ブルーのパイロットが持つ番号は1124T。そう、“ティーチャー”、教官系の番号だ。
「俺たちは戦うために訓練してきた。空でのドッグファイトを夢見て。人に見せるためじゃない」
声は低く、だが芯があった。
だが世間の目は違った。ブルーに配属されるというだけで「エリート」「誇らしい」「夢の舞台」と讃える。パイロットの“顔”として振る舞うその裏で、誰にも言えない焦燥を抱える者がいた。
「俺たちFが、どこかで落ちたときの保険だよ」
先輩の一人が酒席で吐いた。
「最新鋭機に乗れないなら……俺にとっては意味がない」
そうつぶやいた新田の表情は、青白く張り詰めていた。
第2節:ACM中毒患者たち
山本貞夫。教導隊のエース。通称「ヤマチュウ」。
逆光の中、ヘルメットを脇に抱え、真っ直ぐ格納庫に歩いてきた。
キャップには白抜きの“AGGRESSOR”。胸にはドクロパッチ。だが、その眼には曇りがなかった。
「お前、Tを下に見てるようだがな……アグレッサーのTはFより格上だ」
喫煙室で新田にそう語ったのは、整備班長の大野だった。
「奴らのACM(空中戦闘機動)は芸術だ。マニュアルじゃない。センスで飛んでる」
実際、山本はその飛行を**「機眼」と呼んだ**。
「お前、機体だけ見て操縦してるだろ。じゃなくて、空間を読め。敵の気配を読む。あの動きの“意味”を掴むんだ」
模擬戦では、ヤマチュウはわざと制限高度をギリギリまで落として旋回に持ち込む。高速から一気にスロットルを緩め、敵のバルカン射線を外す。敵が加速した瞬間、山本のF-15はノーズアップして宙返り。そのまま背後を取る。
三旋転以内。
「勝負は三旋転だ。それ以上かかるのはヘタクソ」
ヤマチュウは笑わなかった。
第3節:空の墓標
航空博物館に吊られたF-104J。かつて父が愛した機体。
新田はそこに、空の「終わり」を見た。
「父さんの時代には、空戦はもうなくなるって言われてた。でも違った」
ベトナム、第三次中東、第四次中東――航空優勢を失った軍は、地上戦で劣勢を強いられた。
米空軍のF-4が北ベトナムのMiG-17に落とされる。そのパイロットは半年の練度。
一方で、米軍はベテランだった。
問題は、“想定”が通じなかったこと。
「ミサイル万能の時代に、機銃で撃墜された」
父がかつてそう語った夜、灰皿には酒の匂いが充満していた。
「機体が最新でも、操るのは人間だ。勝てるかどうかは、旋回2回で決まる。空戦ってのは、そういうもんだ」
第4節:仮想敵という現実
飛行教導隊は異様だ。全国の部隊を巡回し、仮想敵機として戦術指導を行う。
その任務は「敵になること」だった。
最新のロシア機、中国機のマニューバーを分析し、それを再現する。
ときにはわずかな映像から、1つの軌道を完全に“感得”する。
「俺たちは敵国の幽霊だ」
ヤマチュウが吐き捨てるように言った。
「だが、それが日本の空を守る最後の砦なんだ」
赤外線シーカーのトーンが上がる。
ミサイル警報が鳴る。
ジャミング下ではレーダーは無力になる。
「最終的には目視。機眼。パルスのわずかなブレ、編隊の遅れ……相手の尻尾を捉えられるかどうかで、生死が決まる」
第5節:空の先へ
ACM訓練の後、ヤマチュウが静かに新田に言った。
「ミスしたほうが、落ちる。それだけの話だ。俺たちは、お前たちに“勝ち方”は教えない。“負けない”方法を教える」
その言葉の重みを、新田はようやく理解した。
飛ぶということ。
それは、空を知ることではない。
生き延びるという、ただ一つの正解に向かって、何百もの間違いを排除していく作業。
それが、アグレッサーという存在の真の意味だった。
新田はその日、自らの番号に誇りを取り戻した。
Tでも、Fでもない。
新しい空の層。
彼は、「影の空域」を飛ぶ者となった。
──了──