ep.11 小説断章『風は背から吹く』 改訂版
第一節 プライドの番号
「1124F。戦闘機乗りの特技番号だ。覚えておけ」
佐伯は言った。俺の目の前に立ったその男は、かつて“機眼の佐伯”と呼ばれたトップパイロットだった。もう引退してはいたが、その言葉には今でも空気を震わせるだけの“圧”があった。
「1124Tっていうのは教官だ。お前みたいなひよっこを後ろから見張る、保護者だ。だがアグレッサーに限っては違う。あれは、Tの皮をかぶったFの上位存在だ」
新田空士長、22歳。俺はF-15の実戦配備を目前にした戦闘機パイロット候補生だった。父も空自、俺も空自。だけど、俺はこの組織にどこかしら違和感を覚えていた。
現場の空気が、どこか濁っている。
戦闘機乗りはエリートだ、という幻想。航空祭では子供たちに囲まれて誇らしげに笑う先輩。けれど、その笑顔の裏には、飛ばされる部署、あてがわれる機種、その一つ一つに“栄光”と“屈辱”が分かれている現実があった。
「俺はFのままでいたい」
仲間の一人がそう漏らした時、俺は黙って頷くしかなかった。Tに落とされる。そう呼ばれる世界が、たしかにあった。
第二節 青の哀しみ
配属先は、ブルーインパルス。言わずと知れた空自の顔、曲技飛行隊だった。
「光栄です」と形式的に答えたが、胸の中にあったのは、敗北感だった。
Fのまま、最前線で敵を迎え撃つ。俺の目指していたのは、そっちだった。
「なあ、新田。お前、あいつに似てるな。元ブルーの滝沢中尉。あいつもアクロを“空の見世物小屋”って吐き捨てて辞めたよ」
メシ時、整備員の田所がぼそりとそう言った。見られているのは戦闘じゃなく、観客だ。決められた演目、決められた高度、決められたG制限。
「俺はFのままでいたい」
再び心の中で繰り返す。それでも、訓練は待ってはくれない。毎日が同じ旋回。同じバレルロール。同じスモーク。
ある夜、佐伯がふらりと基地に現れた。
「よくやってるな。だが、お前の顔はまだ前線を向いている。アクロの空じゃない」
「教官……」
「教導隊の試験、受ける気はあるか」
心臓が跳ねた。
第三節 コブラが降りるとき
教導隊──飛行教導群、通称アグレッサー。仮想敵機として全国の飛行隊と模擬空戦を重ねる、空自内でも異端の集団。
「お前らがF-35持ってても、こっちはF-15で落とせる」
最初のブリーフィングでそう言い放ったのは、山本貞夫2等空佐。かつて“鬼のコブラ”と呼ばれた男だった。
垂直尾翼には、黄縁の赤番号。そしてコブラマーク。
あれが“戦うT”の証だ。
教官はこうも言った。
「お前ら、空戦の勝敗は旋回2回で決まる。3回目でケツを見られたら、おしまいだ」
ACM(空中戦闘機動)では、誤差コンマ1秒の判断が命取りになる。旋回率、加速度、角速度。全てを演算しながら飛ぶ。
──いや、違う。
感じるんだ。
敵の意図。機体の鼓動。あいつの狙い。
それが“機眼”だ。
ある夜、山本がこんなことを呟いた。
「俺たちは敵になる訓練をしている。ロシアのマニューバを再現し、中国の軌道をなぞる。パッチはドクロ、キャップにはAGGRESSOR。おかしな話だろ。だがそれが、実戦の礎になるんだ」
俺は何も言えなかった。ただ、目の前の男が、真っ直ぐ空を見ているのだけは分かった。
第四節 空域の継承
模擬戦。俺は、アグレッサーの一員として初めて編隊に加わった。
「フォックスツー!」
レーダーロック。反転。敵が撒いたフレアを無視して、俺は追尾を続ける。
──視界に入った。機影。迷った。
バルカンか、IRミサイルか。
一瞬の逡巡。
「撃て、新田!」
山本の声が耳を突き抜けた。
スイッチオン。
赤いラインが空を引いた。
「命中確認。グッドキル」
インカムの静かな声。
操縦桿を握る指先が、震えていた。
着陸後、整備ハンガーで山本が言った。
「俺たちは、勝つためじゃなく、生き延びるために戦う。敵を知ることが、生き残る第一歩だ。……お前は、もう“F”じゃない。“T”でもない。“影”の空域を飛ぶ者だ」
その言葉を、俺は一生忘れないだろう。
エピローグ
航空博物館で、父の愛したF-104Jを見上げた。
「最後の有人戦闘機」と呼ばれたその機体。その垂直尾翼には、かつての戦いの残響が刻まれていた。
──機眼。
──旋回2回で決まる勝負。
──Tの仮面を被ったFの亡霊。
それでも、空は俺たちを拒まない。
俺たちが恐れを抱くとき。俺たちが疑うとき。その全てを沈黙のまま受け止める。
空とは、そういうものだ。
俺は今日もまた、背に風を受けて離陸する。
――この空に、生き残るために。