第三章:F-104J:最後の有人戦闘機
3.1 F-104Jの記憶と父の誇り
航空博物館を歩きながら、その初老の男はゆっくりと自身の過去を語り始めた。
「私の父が空自の現役パイロットだったちょうどそのころ、そう62年頃から配備されはじめたのがこの飛行機だ。」彼はミュージアムのほぼ中央、天井近くに釣り上げられたF-104Jに目を向けた。その機体は、まるで魚雷に翼をつけたような、細く鋭いシルエットをしていた。まさに「空飛ぶ鉛筆」という異名の通りの形状だ。
「この機体は最後の有人戦闘機と呼ばれた」。父はよくそう言っていた。「すでに従来の旧式の戦闘機のもつ戦闘機らしい高い旋回性能よりも、成層圏まで戦略爆撃機めがけて垂直に駆け上がるロケットのような極端な上昇能力を最優先としたのがその特徴だった。ちょうど空対空誘導ミサイルの登場で、もう前大戦のような戦闘機どうしの空戦はないだろうと思われていた時代が到来しつつあったときだった。」
その時代は、戦闘機の役割が大きく変わろうとしていた過渡期だった。ドッグファイトの時代は終わり、これからはミサイルが空戦の主役になると信じられていた。F-104Jは、その思想の象徴のような機体だった。しかし、皮肉にも、その思想は後に覆されることになる。
当時、年に1度、全国から戦闘飛行隊の代表選手が集まって行う戦技競技会があった。父はそれに、よく出場したものだった。競技の中心は、競点射撃。空中を曳航される標的の吹き流しに対しての弾丸命中率を競うのだ。1回の射撃で100発撃ち、5回の射撃で30発以上命中を2回以上達成すれば、エキスパートシューターと認められた。
「俺は何回かに一回は、先輩をよそめに、ソファーで煙草をくゆらせることができた。腕には自信があった」。父は当時を振り返り、誇らしげに語ったものだ。「先輩だろうが後輩だろうが関係ない。強いものが勝つ。そして強いものがその集団を仕切る。それが当時の父の頭の中を支配していた考え方だった。」
今思えば、ずいぶん家庭でも傲慢な親父だったように思う、と深見は独りごちた。しかし、それは戦場で生き残るための、彼なりの哲学だったのかもしれない。父は、常に強さを追求し、それを自らの存在意義としていた。
3.2 ベトナム戦争の衝撃:空戦の現実
ところが、本格化したベトナム戦争、そして第三次中東戦争、第四次中東戦争で制空権の重要性が再認識されると同時に、航空戦の様相を根底から覆す、ショッキングな事実が判明した。
「ベトナム戦で米戦闘機がばたばたと撃墜されたことだった」。父はそう語り出した。「緒戦となった1965年4月の最初の1週間で、ミグ17。この左上の展示機だが、こいつを相手にした3回の空戦で、米軍は海軍のF-4Bと空軍はF-105Dを計3機撃墜された。しかも米軍はいずれもベテランパイロットであったのに対し、北ベトナム側はわずか半年の経験しかないパイロットだった。」
この事実は、当時の米軍、そして世界の航空戦術に大きな衝撃を与えた。ミサイル万能論の幻想が打ち砕かれ、再びドッグファイト(格闘戦)の重要性がクローズアップされることになったのだ。
ベトナム航空戦での交戦規定は、実際に目で見て、敵か味方かを識別するように定められていた。このため、予期せぬ接近戦にもつれ込むこととなった。ミサイルによる遠距離攻撃ができない状況下では、パイロットの腕と、機体の格闘性能が、勝敗を分ける決定的な要素となる。
「当時のパイロットたちは、F-104のような直線番長の機体で、ミグのような旋回性能に優れた機体と戦わなければならなかった。それは、まるでナイフで銃に立ち向かうようなものだった」。父は、当時のパイロットたちの苦境を、悔しそうに語っていた。
この経験が、後のF-15開発に大きな影響を与えることになる。そして、日本の航空自衛隊もまた、この戦訓から多くのことを学び、戦闘機パイロットの訓練、特にACMの重要性を再認識していくことになったのだ。深見は、展示されたF-104Jを見上げながら、父が語ったその時代の空戦の過酷さと、そこで生き残るために必要だったパイロットたちの技術と精神に、改めて思いを馳せていた。