小説断章『風は背から吹く』
滑走路の向こう、太陽の反射で鈍く光る尾翼に、確かにそれは描かれていた。
──コブラマーク。
教官がぼそりとつぶやいた。「やつらが来たか」
迷彩塗装の戦闘機。黄枠で縁取られた赤い機番。着陸時に舞い上がったタイヤスモークは、冷戦時代の空気そのものを引きずってきたようだった。
俺は思わず身を乗り出して、到着機を凝視していた。
コクピットからゆっくりと降りてくる男。逆光で顔は見えない。だが、その身のこなし、立ち姿、そして──胸の赤い髑髏マークが、全てを語っていた。
飛行教導隊、アグレッサー。
通称「影のF」。“F”より下の“特技番号T”を持ちながら、実際はFを凌駕する操縦技能を持つ者たち。
やつらは、訓練でも模擬戦でも常に“敵”だ。だが、決して侮れない。むしろ、空自における最も“理解されないエリート”とも言える。
教官がつぶやく。
「おまえら、今からあの連中とACM(空中戦闘機動)をやる」
瞬間、俺の全身の毛穴が開いた。
アグレッサーとやる──。それは、戦闘機乗りにとっては“聖域への通行証”を試されるようなものだ。
格納庫の控え室では、模擬戦のブリーフィングが始まっていた。
部屋に貼られた大判の旋回軌道図。ホワイトボードには“セットアップ高度”と“交差距離”。コールサイン。進入方位。
アグレッサーのリーダー、コールサイン「コブラ1」が淡々と話す。
「ACMは、先に仕掛けた側が勝つわけじゃない。旋回一つ、加速一つが、命取りになる。……お前らのクセ、全部見えてるよ」
俺の隣の同期が小さく息を飲んだ。
「コブラ1」の視線が、氷のように俺たちを貫く。
「F-35が何だ、F-15がどうした。機体性能なんざ限界がある。戦闘機ってのはな、パイロットの“機眼”がすべてだ」
誰かがごくりと唾を飲んだ音がした。
「旋回2回で勝負は決まる。三回回って勝てないなら、お前は死んでる」
その言葉は、訓練としてではなく──戦場の現実として、俺の心に突き刺さった。
午後、飛行。
機体にまたがり、タキシング、ランナップ。そして、発艦。
目の前の空は、恐ろしく澄んでいた。だが、心の中は乱気流そのものだった。
レーダーに“コブラ2”の機影。こちらのセットアップ高度2万5千フィート。交差までカウントダウンが始まる。
「フォックス2!」
インカムから叫びが聞こえた瞬間、俺は機体をひねった。真横にGがかかる。視界が狭くなる。
赤外線誘導ミサイルを想定した回避機動。だが──遅い。
背後に入られた。
機首を振って回頭しようとするが、加速が足りない。目視で見える位置にいるはずなのに、“奴”が見えない。
「背中、取られてるぞ」
ブリーフィングルームでの声が脳裏をよぎる。
──負けた。
その瞬間、計器がブルッと振動した。機体の振動じゃない。俺の手が震えていた。
ランディング後、格納庫で汗だくの飛行服を脱ぎながら、俺は呆然と機体を見上げていた。
コブラ2が降りてきて、こちらを見て、小さく頷いた。
それは、勝者の余裕でも、敗者への嘲笑でもなかった。
──戦った者同士の、ただの敬意だった。
夜、格納庫脇の喫煙所。
「負けたよ」
俺はアグレッサーの男にそう言った。タバコを持つ手が汗ばんでいた。
「負けて当然だよ。こっちは1日3 sortie(飛行)、週に15回はACMやってる。癖も読みも、全部仕上げてる」
そう言ったのは、飛行教導隊のベテラン。コールサイン「やまちゅう」こと、山本2等空佐だった。
見た目はただの疲れた中年だったが、目だけは違った。研ぎ澄まされた“空戦の侍”の目だった。
「お前ら、F-35を相手にする日が近い。こいつは視界外戦闘(BVR)に強い。けど、ジャミングされたら終わりだ。電子戦には限界がある。最終的にモノを言うのは……機眼だ」
「機眼……」
「空間を読む目だ。敵の動きの先を予測する。それができなきゃ生き残れない。ミサイルのトーンが鳴っても、撃つな。バルカンの方が確実な時もある」
山本はタバコの火を押し消し、俺の目をじっと見た。
「俺たちはな、技量じゃなく“正確さ”で勝つ。お前が興奮している時点で、俺たちとは次元が違う。空戦に“感情”はいらない」
その言葉は、まるで氷の刃のようだった。
だが、俺の中に、それは静かに突き刺さった。
アグレッサー──
確かに奴らはTだ。特技番号は俺たちFの下。だが、実戦技量では“その上”だ。
──その事実に、誰も反論できなかった。
数日後、俺はかつての教官と再会した。
「曲技飛行への配属だな。良かったじゃないか」
そう言われたとき、俺は答えに詰まった。
「……本当にそう思いますか?」
「少なくとも、空自の飛行職種を背負う者として、恥じる必要はない」
「アクロバットのために訓練してきたわけじゃありません。私の目標は、飛行教導隊だったんです」
「夢を追うのは悪くない。だが、現実の空もまた、夢の一部だ」
その教官の声は優しかった。
数ヶ月後、俺は静かにアクロチームの一員として、青い空を舞った。
最初は、悔しさしかなかった。
だが、同じ軌道を、同じGを、同じ高度を、毎日毎日繰り返すうちに、ある感覚が芽生えた。
──これは、空戦の縮図だ。
正確さ、集中力、チームとの連携。どれも、ACMと本質は同じだった。
そして、ある日。
観覧席に一人の男の姿が見えた。
胸に赤い髑髏マーク。飛行キャップには“AGGRESSOR”の文字。
──あの時の「コブラ2」だった。
彼は俺に向けて、小さく敬礼した。
俺も、自然と手を上げていた。
「飛ぶことに、嘘はない」
そうつぶやいて、俺はスロットルを押し込んだ。
空は、何も言わなかった。
ただ、静かに、広がっていた。
──終──