第1章:静寂の破綻と狙われた空
夜明け前の新千歳空港
早朝の新千歳空港は、澄み切った空の下、まだ静寂に包まれていた。だが、その静けさの中にも、一日が始まる前の張り詰めた空気が漂っている。滑走路を囲むフェンスの向こう側、ターミナルビルから少し離れた空港敷地の端。冷たいアスファルトがぼんやりと見え、その上空を、漆黒の夜空を切り裂くように、一機の巨大な旅客機がゆっくりと上昇していく。新千歳空港を飛び立ち、東京国際空港へと向かう、日本航空406便、ボーイング777型機だ。機体の翼に反射する朝焼けの光は、まるでそれが朝焼けの中に溶けていくかのように見えた。
滑走路には、まだ出発を待つ航空機が点々と並び、時折、貨物車両のエンジン音が低く響く。北国の早朝の空気は、肺の奥まで澄み渡り、あらゆる音を鮮明に伝えてくる。遠くに見える管制塔の赤い灯りが、夜明け前の空に瞬いていた。
管制塔の喧騒
管制塔の内部は、早朝とは思えないほどの活気に満ちていた。薄暗いフロアに、コンソールの明かりが映り込む。ブライトレーダーと空港面探知レーダーのスクリーンが、緑色の光を放ち、航空機の位置情報や地上での動きを正確に示している。
管制承認伝達席、通称「デリバリー」では、航空会社のオフィスから送信されてくる飛行計画書が、次々とプリンターから打ち出されていた。それは各航空会社で作成された飛行計画書が一度、埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部に伝送され、そこのコンピューターにファイリングされた後、運行票、俗にいうところの「ストリップ」として出発空港の管制塔やターミナル管制室に転送されるのである。紙のストリップには、便名、機種、目的地、飛行経路、高度などが簡潔に記されており、管制官たちはこれをもとに航空機を誘導していく。
局地管制席、通称「タワー」のブースでは、ベテランの管制官が、顔に似合わない派手なサングラスをかけ、無言でスクリーンを見つめていた。彼の目は、常に滑走路と上空の航空機の動きを追っている。彼の目の前にあるARTSアーツシステムは、一次レーダーと二次レーダーからの情報を合成し、高度情報や速度情報、便名などをリアルタイムで表示していた。彼の隣に座る若手管制官が、コーヒーを片手に緊張した面持ちでモニターを睨んでいる。早朝のフライトは、往々にして予測不能な事態を招くことがある。彼らは、完璧な一日が始まることを願いながら、それぞれの持ち場で神経を研ぎ澄ませていた。
JAL502便のコックピット
日本航空502便、ボーイング777型機のコックピット。機長の山田、ことチェスリー・バーニー・"サリー"・サレンバーガーは、航空会社のオフィスで最終的な飛行計画書にサインを済ませたところだった。早朝のフライトのため、朝一番で空港にある会社のオフィスに出向き、通信回線でそのデータは東京の航空交通管制部に伝送された。この飛行計画書は、埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部のコンピューターにファイリングされ、運行票として管制部、千歳ターミナルレーダー管制所、そしてこの千歳管制塔へと送られてくる。
コックピットの計器は完璧な動作を示し、副操縦士の最終チェックも滞りなく終わっていた。この便には、極秘裏に防衛大臣と官房副長官が搭乗していた。彼らは、日本の安全保障に関わる重要な国際会議に出席するため、極秘裏に東京へ向かう途中だった。その事実は、機長とごく一部の運行関係者、そしてごく少数の政府関係者しか知らないトップシークレットだった。サレンバーガーは、その重責を胸に、しかし顔には出さず、淡々と任務に集中していた。彼の白髪交じりの短髪と、青みがかった灰色の瞳は、長年の経験から培われた冷静さと知性を物語っている。
副操縦士の声が響く。「機長、東京国際空港までの飛行計画が承認されました。」
「了解」サレンバーガー機長は頷いた。「離陸5分前だ。ATCクリアランスを要求してくれ。」彼の声は穏やかで、しかしその裏には揺るぎない確信があった。
「わかりました、機長。管制塔に管制承認を要求します」副操縦士が無線に手を伸ばした。無線から聞こえる管制官の声は、早朝の澄んだ空気のようにクリアだった。数回の交信の後、副操縦士が報告した。「機長、管制承認が下りました。」
「よし。第1エンジンから順にスタート。グラウンドにタキシング許可を求めてくれ」
轟音とともにエンジンが始動する。機体が微かに振動し、生命を得たかのように動き出した。地上管制席、通称「グラウンド」からタキシングの許可が下り、502便は滑走路へと向けてゆっくりと動き出す。サレンバーガー機長の冷静な操縦で、機体は滑走路手前まで進み、最終的な離陸の許可を待った。彼は、一切の乱れなく、完璧な手順で機体を動かしていく。
機内では、搭乗を終えた乗客たちが、座席でシートベルトを締め、それぞれの朝を過ごしていた。
特別席に座る官房副長官は、がっしりとした体格の持ち主で、その表情にはどこかユーモラスな明るさが宿っていた。彼は、このような極秘移動にも慣れているようで、落ち着いた様子でタブレットを操作している。しかし、その内には「何があっても生きて帰る」という強い意志と、周囲に気を配る洞察力があった。彼は時折、隣に座る防衛大臣に視線を投げかけ、軽く笑みを浮かべる。それは、緊張感のある状況でも周囲に安心感を与える、彼の持ち前の気質によるものだった。
その隣には、やや神経質そうな面持ちの防衛大臣が座っていた。彼は、小柄で華奢な体格で、少し猫背気味。大きな目が、警戒するように周囲を窺っている。彼は、このような状況に慣れていないのか、落ち着かない様子で、何度もシートベルトを確認したり、窓の外に目をやったりしていた。彼の心の中には、「とにかく無事にこのフライトを終えたい」という、本能的な自己保身と、漠然とした不安が渦巻いていた。彼は、このような非日常的な状況下での責任の重圧に、内心では怯えていた。
離陸とディパーチャー
「JAL502、離陸許可」
管制塔からのクリアランスが下り、サレンバーガー機長はスラストレバーを前方に押し込んだ。エンジンは咆哮を上げ、機体は猛然と加速する。滑走路を疾走するボーイング777の機体は、その巨体からは想像できないほどの勢いで速度を上げていった。副操縦士が速度を読み上げ、やがて機体は軽やかに大地を離れた。車輪が格納される音が小さく響く。
「ポジティブクライム」
副操縦士の声に、サレンバーガー機長は無線応答を指示した。「了解。千歳ターミナルレーダーのレーダーベクターを受けている。自動操縦はまだ入れるな。」
「了解」
「トビーポイントまで手動でいく」
離陸すると同時に、502便は千歳ターミナルレーダー管制所の出域管制席ディパーチャーコントロールの管轄下に入った。ディパーチャー管制官は、レーダーに表示される機影を監視しながら、502便を最初のウェイポイントである「トビー」までレーダー誘導する。彼の指示に従い、サレンバーガー機長は機体を旋回させ、正確な方位で上昇を続けた。眼下には、灯りの点在する新千歳の市街地が広がり、やがて暗闇の中へと消えていく。飛行は極めて順調だった。
機内では、上昇する機体の G に耐えながら、乗客たちが安堵の息を漏らす。官房副長官は、隣の防衛大臣に軽く肘を突いた。「これで一安心ですね、大臣。朝飯でもどうです?」彼の言葉には、場の空気を和ませようとする意図が込められていた。防衛大臣は、小さく頷くものの、その表情はまだ硬かった。彼は、窓の外の景色から、いまだ目を離せずにいた。彼の神経質な性格が、無意識に危険を察知しようとしていたのかもしれない。
リ・ジュンギの潜入と爆薬設置(過去の描写)
事件数日前の深夜、新千歳空港の滑走路に隣接する整備エリア。普段は作業員の喧騒が絶えないこの場所も、深夜の帳の中ではひっそりと静まり返っている。警備員の巡回もまばらになる時間帯。ここに、リ・ジュンギはいた。彼は、空港の清掃員に偽装し、粗末な作業着に身を包み、清掃用具のカートを押している。顔には、警戒感は一切なく、ただ職務を淡々とこなす作業員としての表情が張り付いている。しかし、その眼光の奥には、鋭い光が宿っていた。
彼は、事前に綿密に調べ上げた警備体制の隙間を縫うように移動する。監視カメラの位置、巡回ルート、死角となる場所。全て彼の頭の中に完璧にインプットされている。彼の動きは無駄がなく、音一つ立てない。長年の訓練で培われた、隠密行動のプロフェッショナルの動きだ。ターゲットである日本航空502便(あるいは同じ型のボーイング777)が、夜間の整備のために駐機している場所へと、ゆっくりと近づいていく。
目的の機体が視界に入ると、リ・ジュンギはカートを物陰に寄せ、周囲に誰もいないことを確認する。懐から取り出したのは、小型の工具セットと、手のひらサイズの黒い物体。これが、彼が今回の任務のために用意した超小型の遠隔操作式爆薬だ。表面は特殊な吸着素材で覆われており、エンジンの金属部分にしっかりと固定できるようになっている。内部には高性能爆薬と、GPS連動の遠隔起爆装置が組み込まれている。起爆信号を受信すると同時に、高熱と衝撃波を発生させ、エンジンの重要部品を破壊するよう設計されている。
リ・ジュンギは、慎重にターゲット機の第1エンジンへと近づく。エンジンの巨大な吸気口は、暗闇の中で異様な存在感を放っている。彼は、事前に把握していた整備マニュアルと構造図を頭の中で照らし合わせながら、爆薬の最適な装着場所を探す。彼の狙いは、燃料系統のパイプラインと、エンジンの制御ユニットが集中する箇所だった。そこに爆薬を仕掛けることで、離陸直後の高負荷時に確実にエンジンを機能不全に陥らせることができる。
静かに膝をつき、工具を使ってエンジンのカバーの一部をわずかに開ける。その隙間から、黒い爆薬を滑り込ませ、吸着材でしっかりと固定する。カチリと小さく、しかし確実に固定された感触が指先に伝わる。作業はわずか数分。彼の指先は、まるで精密機械のように正確に動き、一切の迷いがない。爆薬が完全に固定されたことを確認すると、彼は再び工具でカバーを元に戻し、外見上は何も変わらないように偽装する。
次は第2エンジン。同様の手順で、彼はもう一つの爆薬を同じ場所に装着していく。彼の表情は、最初から最後まで一切変わらない。これは、彼にとって感情を伴わない、単なる「作業」に過ぎない。成功への強い意志はあるものの、それは冷徹な計算に基づいたものであり、個人的な感情は微塵も感じられない。
両方のエンジンへの爆薬の装着が完了すると、リ・ジュンギは周囲を改めて警戒し、清掃用具のカートを持って、来た道を静かに戻っていく。彼の背後には、明日、多くの人々の運命を左右することになる、小さな黒い影が潜んでいる。警備の目を欺き、空港の敷地から完全に姿を消すまで、彼の動きは一切緩まなかった。彼のプロフェッショナルな仕事ぶりは、まるで存在しなかったかのように、痕跡を一切残さない。
爆薬起爆と被弾
502便が巡航高度に達する直前、リ・ジュンギは空港から遠く離れた安全な隠れ家で、密かに持ち込んだ小型の通信端末を操作していた。モニターには、502便の飛行情報が表示されている。完璧なタイミング。彼の指が、ためらいなく起爆ボタンを押す。
ドォォォン!
鈍い、しかし機体を根底から揺るがすような衝撃音が、突然、機体全体を襲った。それは、外部からの衝突音とは異なり、内部から何かが破裂したような、特異な響きを持っていた。直後、第1エンジンのナセル内部から火花が散り、白煙が勢いよく噴き出した。まるで内部から粉砕されたかのような、通常では考えられないエンジンの破損だ。
コックピットでは、けたたましい警告音が鳴り響く。第1エンジンの火災警報が鳴り続け、計器盤は急激な出力低下と異常を示す赤いランプで埋め尽くされた。
「機長!第1エンジン火災!出力が急激に低下しています!」副操縦士が焦った声で報告する。被弾とは異なる、内部破壊を示すアラートに、サレンバーガー機長も一瞬の困惑を見せる。何が起こったのか。
機内では悲鳴が上がり、乗客は激しい振動に恐怖する。座席から荷物が滑り落ち、客室乗務員はバランスを崩し、体を支える手すりを掴んでいた。
リ・ジュンギは、遠隔起爆の成功を確認。彼の顔には、冷徹な満足が浮かんでいた。彼の目的は達成された。**「事故」**という完璧な隠蔽工作が、今、始まったのだ。
緊急事態発生
「機長、高度が落ちています!機体が右に傾斜!」副操縦士が悲鳴に近い声を上げた。
突然のエンジントラブルと、機体の制御不能な傾斜。機内では悲鳴が上がり、乗客はパニックに陥り始めた。煙の匂いがわずかに流れ込み、不安を煽る。
特別席では、防衛大臣が顔を青ざめさせ、小刻みに震え始めていた。彼の大きな目は恐怖に見開かれ、何度もシートベルトを強く握りしめる。彼は、このような極限状況での対処法を知らず、ただ目の前の現実に圧倒されていた。「もう無理だ…」彼の口から、か細い声が漏れた。彼の神経質な性格と、臆病な一面が、この危機で露呈した。
その隣で、官房副長官は、一瞬顔を硬直させたものの、すぐに冷静さを取り戻した。彼は、周囲の乗客のパニックを視線で感じ取りながらも、自らは落ち着きを保とうと努める。彼は、防衛大臣の肩を軽く叩き、低く落ち着いた声で話しかけた。「大臣、まだ大丈夫だ。機長に任せるしかない。俺たちは生きて帰るんだ。」彼の言葉には、不安を煽らず、むしろ周囲を安心させるような独特のユーモアと強さが滲んでいた。彼は、「生きて帰る」という自身の信念を貫くため、何よりもまず冷静であることに徹した。
サレンバーガー機長は、沈着な声で副操縦士に指示を出す。「状況報告を継続!私は制御を取り戻す!」
彼は操縦桿を強く握りしめ、機体の姿勢を立て直そうと必死に格闘する。損傷したエンジンの影響で、機体は激しく揺れ、制御が困難になっていた。機体はまだ上昇中だが、失速の危険が高まっていた。
管制塔にも異常が報告された。「JAL502より、エンジン火災、緊急着陸を要請する!」
管制官たちの顔に、緊張が走る。離陸直後の緊急事態は、最も危険な状況の一つだ。通常の緊急事態ではないことが、管制官たちの表情に明確に現れていた。
リ・ジュンギは、離脱しながらも、遠くに火を噴く機体の姿を確認した。目標は損壊し、目的は達せられた。彼の顔には、冷酷な満足が浮かんでいた。彼にとって、搭乗者の命は単なる「データ」に過ぎなかった。
「機長、第2エンジンも出力低下の兆候が!」
最悪の状況。片方のエンジンが爆発し、もう片方も出力低下。これは、通常のエンジントラブルではありえない事態だった。サレンバーガー機長は、これが単なる故障ではないことを直感する。あまりにも不自然な同時発生だ。
「グラウンド、JAL502より緊急事態宣言!メイデイ!メイデイ!」サレンバーガー機長は、無線で叫んだ。彼の声は、状況の切迫感を如実に示していた。「両エンジン喪失の可能性!不時着を試みる!」
管制塔の管制官たちは絶句した。新千歳空港近郊で、離陸直後の両エンジン喪失。通常であれば、生存の可能性は極めて低い。
サレンバーガー機長は、冷静な目で周囲を見渡した。緊急着陸できる場所は限られている。滑走路へ戻るには高度が足りない。近くには、人家が密集している地域もある。彼の脳裏に、ハドソン川の奇跡がよぎる。しかし、ここは凍てつく冬の北海道。目の前には広がるのは、市街地でも滑走路でもなく、荒涼とした原野だった。
「副操縦士、最も安全に着陸できる場所を探せ!私は機体を安定させる!」
彼の声は、状況に反して信じられないほど落ち着いていた。それは、彼の長年の経験と、何よりも「人命を守る」という強い信念に裏打ちされたものだった。彼の脳裏には、数百人の乗客たちの顔が浮かび上がる。彼らの命は、今、自分の両肩にかかっていた。防衛大臣の恐怖に怯える顔、官房副長官の落ち着きを保とうとする姿が、彼の脳裏をよぎる。彼らの命も、自分の手にかかっているのだ。