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第3章:国家の罪と、影の戦いの行方


東京・市ヶ谷、午前8時25分。防衛省地下第3会議室。地上の喧騒とは隔絶されたその部屋は、古びたコンクリートの壁が沈黙を強要するような重苦しさを漂わせていた。監視カメラの死角に設計されたその空間は、まさに密談のために存在するかのようだった。


長机の向かいに座る冬木真白の視線は、一切の動揺を見せない。彼女の前に座るのは、灰色のスーツを身に纏った一人の男。情報本部内部監察室長・石動尚之。防衛官僚の中でも「報復の番犬」と畏怖される男だった。彼の目は、真白の冷徹な仮面の下に隠された真意を探るかのように、鋭く光っていた。


「――諜報機関としての越権行為ではないのか?」


石動が、低い声で切り出した。その声には、冷たい響きが混じっていた。


真白は表情を崩さない。彼女の任務は、常に法と倫理の境界線上にある。しかし、彼女が越えたと石動が指摘する境界線は、単なる職務規定ではなかった。


「任務は、外事課指令第71号に基づく正規の行動でした。作戦行動、対象の回収、敵対者の排除、すべて完了しています」


真白は、簡潔に、しかし明確に答えた。彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。事実に基づいた報告。それが彼女のプロフェッショナルとしての誇りだった。


「それは“表”の報告だ。だが君が本当に追っていたのは“コンテナの中身”ではなく、そこに付随した――政治的背景だろう?」


石動の言葉は、真白の心の奥底を鋭く抉った。彼の目は、まるで彼女の思考を読み取っているかのようだ。真白は一瞬、目を伏せた。そのわずかな沈黙を、石動は見逃さなかった。彼は、この沈黙こそが、彼女が何かを隠している証拠だと確信したのだろう。


「我々は軍人ではない。情報という“政治の刃”を握っている。それを振るうには、許可と意図がいる。……君は、その境界線を越えた」


石動の声は、会議室の空気を凍りつかせた。彼の言葉は、真白への直接的な非難であり、同時に、彼女の存在自体が組織にとって危険視されていることを示唆していた。真白の背筋に、冷たい汗が走った。この言葉はすなわち「切り捨て」の予告である。彼女は、この世界の非情な論理を誰よりも理解していた。任務が完了すれば、邪魔な存在は排除される。それが、影の世界の掟だ。


この間、住本健司は自身のデスクで、尼崎での水際作戦の報告書を読み返していた。彼の隣では、五十嵐彩音が淡々と次の作戦に関する情報を整理している。そして、窓の外を眺める松沢陽菜は、依然として、アルビナ号での銃撃戦と真白の容赦ない行動、そして自殺したテロリストの姿に複雑な感情を抱いていた。住本は松沢の倫理的葛藤を静観していたが、彼女の変化を見抜いていた。五十嵐は、常にプロとして住本の指示を待つ。三者三様の「任務」と「倫理」への向き合い方が、この狭いオフィスで交錯していた。


同時刻、防衛省別館・地下データ解析室。窓のないその部屋は、無数のサーバーの稼働音と、青白いモニターの光に満たされていた。黒瀬敬吾は、深夜からオフライン端末の前で、例の光ディスクを精査していた。真白が命を懸けて奪取した、あの金属ケースの中にあった光ディスクだ。軍事仕様の分厚いアルゴリズムが、幾重にもかけられている。通常の手段では、解読不可能だろう。しかし、黒瀬は天才的な解析能力を持つ。彼の手が、キーボードの上を猛烈な速度で滑る。彼の顔には、疲労と、そしてある種の覚悟が浮かんでいた。


数枚のサブチップから、決定的な一文が浮上した。画面に表示されたその文字を見た瞬間、黒瀬の動きが止まった。


《対象:KANRIN-MARU計画》

《記録者:防衛装備庁 第3研究部門》

《備考:生物的特性を改変した感染試作体、試験コード“N-4”》

《処理:民間実験施設に移送予定(関西)》


黒瀬は絶句した。彼の顔から血の気が引いていく。


「これは……生物兵器だ。それも国内実験……しかも民間施設?」


彼は、声に出して呟いた。信じられない現実が、彼の目の前に突きつけられた。国家が、国民の安全を守るべきはずの国家が、密かに、人間に有害な生物兵器を開発し、それを民間施設で実験しようとしていた。


そして、さらに一枚の報告書のスキャンが現れる。


《報告先:防衛大臣官房付 極秘保安ファイル》

《通達:真白 冬木の任務完了をもって処分対象リスト“PhaseC”に追加》


黒瀬の手が止まった。彼の目に、はっきりとその文字が焼き付いた。


「処分……? 真白を?」


彼は一気に立ち上がり、通信端末を叩く。震える指で、真白の緊急連絡先にアクセスしようとする。


「真白、聞こえるか。君、今すぐその場を離れろ。逃げろ」


だが、応答がない。通信は途切れたままだ。続いて音声通信を切り替えるが、これも電波妨害を受けている。彼の顔に、絶望的な焦燥が浮かび上がる。


「……まさか、もう始まってる」


彼は、真白が内部監察室に呼び出されていることを知っていた。そのタイミングで通信妨害。全ては、真白を排除するための周到な計画だったのだ。彼の心臓が、激しく警鐘を鳴らした。


その頃、市ヶ谷の会議室では、静かに会議が終わりかけていた。石動の顔には、任務完了の満足げな笑みが浮かんでいる。


真白が立ち上がった瞬間、背後から2名の警務官が近づいた。彼らの制服は、完璧にアイロンがかけられ、その表情は冷徹だった。


「冬木一等陸佐、あなたには内部調査への協力を求めます。しばらく庁内に待機を」


警務官の一人が、事務的な口調で告げた。


「理由は?」真白は、感情の読めない声で問い返した。


「上層部からの命令です。詳細は別室で」


真白は、あえて抵抗しなかった。彼女は、この状況を冷静に分析していた。力ずくで抵抗すれば、状況はさらに悪化するだけだ。だが、その目はすでに“逃走計画”を思考していた。彼女の頭の中には、情報本部本部棟の構造図、非常用シャフト、通気ダクトの構成までがすでに叩き込まれている。彼女は、常に最悪のシナリオを想定し、そのための準備を怠らない。


「……30分、ください。資料を整理します」


真白は、わずかに声を低くして要求した。警務官は顔を見合わせたが、最終的には頷いた。


「速やかに」


警務官が退室した瞬間、真白は迷いなく資料棚の奥深くから、予備のピストルとセンサー阻害剤を抜き出した。その手際には一切の迷いがない。まるで、それがずっとそこにあることを知っていたかのように、自然な動きだった。彼女の顔には、わずかな笑みが浮かんだ。


「30分後、ここに私はいない」


彼女の呟きは、誰に聞かれることもなく、静かに部屋の中に消えた。外は、まだ雨が降っていた。その雨は、彼女の脱出を隠すための、天からの恵みのように感じられた。


大阪南港、倉庫街。重く湿った空気が漂い、コンテナの巨大な影が、闇の中で不気味にそびえ立っていた。黒瀬は、コンテナの影に車を停め、後部座席から一つのケースを取り出した。そこには、真白が命をかけて奪った生物兵器データ群と、彼が自ら防衛省のシステムに不正アクセスして入手した“国家の罪”の証拠が収められていた。


「KANRIN-MARU計画」。それは名ばかりの海上輸送プロジェクトではなかった。中身は「N-4」と呼ばれる遺伝子組換えウイルス兵器と、その人体実験データだった。しかも、それを裏で支援していたのは、国会議員数名、外資系製薬企業、そして防衛装備庁の一部幹部たち。国家の安全保障を盾に、国民の命を弄ぶ、悪魔のような計画だった。


「沈むのは、俺たちじゃない。国家そのものだ」


黒瀬は、歯を噛みしめた。彼の顔には、憤りと、そして真実を暴くという固い決意が宿っていた。



一方、真白はその夜、大阪南港の暗がりで、ある人物との再会を果たしていた。港の埠頭の片隅。潮風が肌を刺す中、スコッチの空き瓶を片手に、影の男が現れる。


「久しぶりだな、“ユキ”」


かつての上官、現在は行方不明とされた元公安調査庁の外事課長・三國浩一。真白にとっては、まだ未熟だった頃の自分に、“諜報の作法”という名の冷徹な現実を教えてくれた唯一の人間だった。彼の顔には、年月の重みと、深い影が刻まれている。


真白は、その場から動かず、三國を見つめた。


「あなたも、知っていたんですか……KANRIN-MARUの中身を」


三國は、空き瓶を傾け、残りを飲み干した。


「ああ。知っていた。だが俺には止められなかった。国家が望んだ“歪んだ平和”だったからな」


三國の声は、どこまでも冷たかった。彼の言葉は、真白がこの世界で見てきた、国家の論理と個人の倫理の間の深い溝を象徴していた。国家の安全のためならば、どんな非道も許される。それが、彼らが生きる世界だった。


「それでも、黙っていたんですね」真白の問いは、彼女自身の葛藤の現れでもあった。


「そうだ。俺たちは“そういう世界”に生きている」


三國は、真白の目を見据えた。その瞳の奥には、諦めにも似た、しかし揺るがぬ覚悟が見えた。国家の闇の深さを、彼は誰よりも知っている。そして、その闇に抗うことの無謀さも。



黒瀬と真白は合流した。大阪南港の奥まった倉庫街。二人は、国家の最も暗い秘密を手にしていた。その瞬間、倉庫街全域が異常な沈黙に包まれた。潮の音、風の音、遠くの車の音、全てが消え去ったかのように、世界から音という音が消えた。


「……囲まれてる」


真白はかすかに嗤った。その笑みには、諦めではなく、戦う者の覚悟が宿っていた。


「国家に牙を向けた代償ってやつよ」


港の埠頭から、複数の無人ドローンが静かに浮上し、その下に搭載されたライフルが、彼らに向けられた。そして、黒服を身に纏った特殊部隊が、闇の中から姿を現す。彼らは警察ではない。自衛隊でもない。民間警備会社の偽装をした“国家の私兵”だった。訓練された動き、最新の装備。それは、国家が秘密裏に保有する、影の実行部隊だ。


「真白冬木、黒瀬敬吾。機密漏洩および国家反逆未遂の容疑で拘束する」


特殊部隊のリーダーらしき女の声が、マスクの奥から響いた。その声には、一切の感情が感じられない。


黒瀬は「機密ってのは、国民に隠すための都合のいい言葉だよな……」と低く呟き、拳銃を構えた。彼の顔には、国家の欺瞞に対する強い怒りが浮かんでいた。



真白の瞳に、冷たい光が宿る。かつて誰よりも冷徹に任務を遂行してきた自分が、いま国家の“標的”になっている。皮肉だった。しかし、その皮肉は、彼女の決意を揺るがすことはなかった。


「逃げないのか?」黒瀬が言う。彼の銃口は、すでに特殊部隊に向けられている。


「逃げても、どこかでまた誰かが殺されるだけよ。私たちで止めなきゃ」


真白はそう答えると、スーツの内側から、手のひらサイズのEMP(電磁パルス)爆弾を取り出した。それは、通信機器や電子機器を一瞬にして麻痺させるための特殊な装備だ。


「10秒の通信遮断。その隙に抜ける」


「また君の手口だな」黒瀬は、真白のその手腕をよく知っていた。


EMPが起爆した瞬間、周囲のドローンが次々と制御を失い、金属音を立てて墜落する。それと同時に、特殊部隊の通信機器も機能停止に陥った。そのわずかな混乱の隙を突き、黒瀬と真白は左右に展開。散弾、閃光弾を駆使し、まるで旧式の戦術が今もなお、通用するかのように、二人の異常なまでに訓練された動きが敵の射線を逆に誘導する。彼らの体は、まるで一体の機械のように連動し、闇の中を駆け抜ける。


5分後、埠頭の一角で、真白は「防衛装備庁 機密通達」の原本を封筒に収め、ある人物へ託していた。それは、かつて彼女が“切り捨てた”ジャーナリスト・遠野だった。真白が情報操作のために利用し、そのキャリアを潰した過去がある。


「これを、お前に託す。今度は……お前がやれ」


真白の声は、かつてないほど感情がこもっていた。それは、彼女なりの贖罪であり、この情報を世に出すための最後の希望だった。


遠野は封筒を受け取り、その重みに息を呑んだ。


「本気かよ。政府が全力で潰しにかかってるぞ?」


「お前はそういう場所にいた。俺はもう使えない。でも、お前なら報じられるかもしれない」真白は、遠野の目を見据えた。彼の持つ正義感と、真実を追求する情熱を信じていた。


「……命、惜しくないのか」遠野は、真白の覚悟を問うた。


「何人も死んだ。それでも俺たちは、情報で戦ってる」


真白の言葉は、まるで彼女自身の決意の表明でもあった。遠野は封筒を強く握りしめた。


「真白……これが最後の戦いになるな」


遠野の呟きは、夜の風に溶けていった。



数日後。日本の各報道機関が、まるで示し合わせたかのように、“KANRIN-MARU計画”の存在を一斉に報じた。その内容は衝撃的だった。国家による生物兵器開発と、それに伴う人体実験の疑い。日本中が、にわかに騒然とした。


だが、政府の反応は素早かった。総理大臣は即座に緊急会見を開き、報じられた内容を「フェイクニュース」と断じ、情報の信憑性を徹底的に否定した。そして、その数日後、発信源であるジャーナリスト・遠野は、不審死を遂げる。


黒瀬は、その後、姿を消した。彼の行方は杳として知れない。そして、真白も、以後行方不明となった。彼らは、国家の闇に飲み込まれてしまったのだろうか。


しかし、物語はここで終わらない。


数週間後、ある民間病院で発見されたウイルス性疾患に関する研究記録に、こう書かれていた。それは、ごく一部の人間しかアクセスできない、隠されたファイルだった。


《本計画に関与したすべての記録は、2025年3月をもって抹消される。》

《ただし、“証人”が消えるまでは──》


それは、KANRIN-MARU計画の真実が完全に闇に葬られたわけではないことを示唆していた。「証人」。その言葉が、今後の展開に含みを持たせる。真白や黒瀬の行動は、無駄ではなかったのだ。彼らが命を懸けて暴こうとした「国家の罪」は、まだこの世界に存在している。そして、その真実を追い求める、新たな戦いが、静かに始まろうとしていた。

【要約】防衛省の真白は、上官の石動から越権行為を追及され、処分対象となる。一方、天才的な解析能力を持つ黒瀬は、真白が奪取した光ディスクから、国家が極秘に進める生物兵器開発「KANRIN-MARU計画」の証拠と、真白の「処分」を命じる通達を発見。


真白は警務官の拘束を逃れ、大阪南港で黒瀬と合流。そこに特殊部隊が襲撃するが、EMP爆弾で混乱を生み、ジャーナリストの遠野に証拠を託す。


遠野は命を懸けて報道するも、政府はこれをフェイクと断定し、遠野は不審死。黒瀬と真白も姿を消し、国家の闇に飲み込まれたかに見えた。しかし、隠された研究記録には「証人」が消えるまで計画は終わらないと記されており、彼らの戦いはまだ続いていることを示唆する。

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