第2章:回収、銃声、そして国家の私兵
尼崎港に接岸した貨物船「アルビナ号」の船内は、薄暗く、錆びた鉄と潮の匂いが混じり合っていた。湿気を帯びた空気が重くのしかかり、照明の届かない船倉の奥からは、得体の知れない闇が口を開けているかのようだった。
冬木真白は、先導する税関職員と入管の背後を、無音で追っていた。彼女の足音は、船体の軋む音や遠くの波音に完全に溶け込み、まるで影が滑るようだった。横には黒瀬敬吾が、タブレット端末を操作しながら周囲の状況を把握している。彼らの目的はただ一つ。この船に密かに持ち込まれた生物兵器データ、コードネーム「カリーム」の“荷物”を“奪取”することだ。
船内通路の奥へと進むと、次第に冷気が増していく。目的地が近いことを示す兆候だった。冷凍倉庫区画。その表示を見た瞬間、真白の瞳にわずかな緊張が走った。テロリストが危険物を輸送する際、温度管理を要する生物兵器を用いることは珍しくない。
「ここです」
税関職員の一人が、立ち止まって指差した。そこには、二段に積まれた巨大な海上コンテナの間に、不自然な隙間ができていた。その隙間を覗き込むと、金属製の強化ケースが設置されているのが見えた。ケースには無数のケーブルが接続され、かすかな稼働音が聞こえる。
真白は、迷いなくケースに近づいた。彼女のプロフェッショナルな感覚が、中に“人体に有害な何か”があることを告げていた。ケースの表面には、生体センサーらしきものが仕込まれ、内部の温度維持機構が作動している。爆発物のような単純な熱源ではない。より複雑で、生命に関わるもの。
「……あったわ」
真白が短く告げた。その声には、安堵でもなく、興奮でもなく、ただ任務を遂行する者の冷徹な確認があった。背後に控えていた公安係官の一人が、慎重に梱包ケースごと移動させようと身をかがめた。緊張の糸が、一本、一本、張り詰めていく。
その瞬間――
「動くな!」
甲板後部から、怒号が響き渡った。そして、乾いた銃声。
パンッ!
船内に緊張が走る。反射的に身を伏せる公安係官たち。真白の脳裏に、事前情報がフラッシュバックした。「カリームの随伴者」。制圧予定だったテロリストの一人が、船長を人質に取り、発砲したのだ。
2発目の弾が、真白の頭上を掠め、金属製のコンテナにぶつかる。キィン、と耳障りな甲高い音が響き渡り、火花が散った。船内が阿鼻叫喚となる。港湾労働者や船員たちが、悲鳴を上げながら逃げ惑い、混乱が広がっていく。
「……ちっ」
真白は舌打ちした。任務は常に予期せぬ事態と隣り合わせだ。彼女の視線は即座に、船長を人質に取る男の背後の影を捉えた。距離、角度、人質の安全、そして自らの命。全ての要素が脳内で瞬時に計算される。
0.8秒。
一瞬の判断。リチャード・ライベンのような冷徹な現実主義が、真白の行動を支配した。迷いはない。Glockの銃口が静かに上がる。サイレンサーが装着された銃口から、弾丸が放たれる。発砲音は、まるで空気を裂くような小さな「プシュッ」という音にしかならない。
「ギャッ……」
声をあげた男が、血を吐いて崩れ落ちる 。銃弾は男の頭部を正確に貫いていた。即死だ。船長がよろめいた瞬間、真白は駆け寄り、その体をしっかりと押さえつけた。
「無事です。負傷なし」
真白の声は、一切の動揺を見せなかった。背後から黒瀬が到着し、船内の状況を目で確認する。
「もう1人逃げたぞ、海に!」
別の公安係官の叫び声が聞こえる。真白は素早く船外に目をやった。夜の海に、黒い小型ボートが猛スピードで遠ざかっていくのが見えた。
「船だ。小型ボートで脱出した」
住本健司の声が、インカム越しに響く。「海上保安庁に追跡を要請! 絶対に逃がすな!」彼の「公安の魔物」たる冷徹な判断力が、混乱の最中でも的確な指示を出す。住本の隣で、五十嵐彩音巡査部長が、瞬時に海保の無線周波数に切り替え、状況を伝達していた。彼女の指はキーボードの上を正確に滑り、情報は淀みなく処理されていく。感情に流されず、冷静に任務を遂行する五十嵐のプロフェッショナルな姿勢は、この緊迫した状況でも揺るがなかった。
しかし、その背後では、松沢陽菜巡査長が、船内の惨状と真白の冷酷な制圧を目の当たりにし、息を呑んでいた。テロリストの非情な行動、そしてそれを上回るかのような真白の容赦ない対応。松沢の正義感は、目の前の現実との間で激しく揺さぶられていた。彼女の顔は青ざめ、口元は固く引き結ばれている。外事警察の任務が持つ非情さと倫理的葛藤を、松沢は今、肌で感じていた。
尼崎港から外海へと続く水路を、漆黒の小型船が猛スピードで逃走していく。その小型船に対し、海保の警備艇が追跡を開始した。波を蹴立て、白い波飛沫を上げながら追跡する巡視艇と、逃走する小型船との距離が、少しずつ、しかし確実に縮まっていく。
停船命令が、数回にわたり大音量スピーカーで送出された。無線からは、海保の隊員が繰り返し「直ちに停船せよ! 従わなければ発砲する!」と叫ぶ声が聞こえる。しかし、小型船はそれを無視し、闇夜の中へと消えようとする。
「警告射撃用意!」
巡視艇の船長の声が響いた。緊迫した状況の中、やむなく機関銃による威嚇射撃が実施され、曳光弾が小型船の周囲の海面に火花を散らす。その警告が効果を発揮したのか、小型船はわずかに減速した。
巡視艇が両側から小型船に接近し、熟練した海上保安官たちが強行乗船。瞬く間にテロリスト1名を制圧・逮捕した。激しい抵抗はなく、男は観念したように手錠を受け入れた。彼の表情には、計画が破綻したことへの絶望が浮かんでいるようだった。だが、その場にいたもう1名の男は、保安官に確保される寸前、口元に手をやり、何かを咀嚼した。
ゴクリ、と喉が鳴る音が聞こえたかと思うと、男の体が痙攣し、次の瞬間にはぐったりと倒れ込んだ。即死。
「毒のカプセルだ! 自殺用の毒薬を飲んだ!」海保からの報告が無線に飛び込んできた。
総理官邸の緊急事態室では、事態の推移がリアルタイムで報告されていた。壁一面に広がる大型モニターには、尼崎港の衛星画像、現場からのライブ映像、そして各機関からの通信状況が表示されている。
「船長が人質にされ、テロリスト2名が船内で立てこもりました」
内閣官房長官、村松久美が、落ち着いた声で総理大臣に報告する。彼女は、日本初の女性総理大臣候補と目される実力者であり、その知性と威厳は、緊迫した状況下でも揺るがない。しかし、その声には、わずかな焦りが滲んでいた。
「対処をしくじったのか。事前情報まであったのに……」
総理の額に深い皺が寄った。予期せぬ事態だ。テロリストは、事前に察知されていたにもかかわらず、まだ抵抗を続けている。この時点で、既に「未遂」という言葉では片付けられない状況だった。
「加えて、別の2名が小型船で海上から逃走を図っております」
村松官房長官の声が、さらに事態の悪化を告げた。彼女は総理の表情を読み取りながら、必要な情報を簡潔に伝えている。その瞳は、冷静さを保ちつつも、国家の命運を背負う重みが揺らいでいた。
尼崎港の港湾監視モニター室では、真白が、毒薬で即死したテロリストの姿を見届けていた。彼の死体は、まるで紙人形のように地面に横たわっている。
「毒だわ。……任務失敗に備えてたのね」
真白が呟いた。その声には、一切の感情がない。まるで、死者をただの「情報」として処理しているかのようだった。
「生きて帰るつもりなんて、最初からなかった」
黒瀬の言葉は重い。テロリストたちの徹底した覚悟と、彼らの背景にある組織の冷酷さを改めて示すものだった。彼らは、捕まるくらいなら死を選ぶ。それは、自衛隊員や警察官とは異なる、別の種類の覚悟だ。
船内に立てこもっていた2名のテロリストは、依然として膠着状態が続いていた。公安の特殊部隊が慎重に包囲網を敷く中、彼らは人質を盾に交渉を続けている。
その時だった。
ドンッ!
港湾ゲートが爆発音と共に破られ、黒い不審車両が急進入。猛スピードで北岸壁へと向かってくる。タイヤがアスファルトを擦る甲高い音が、夜の港に響き渡る。
その直後、アルビナ号の船内から、人質を盾にした2名のテロリストが現れた。彼らは自動小銃を構え、銃撃を交えながら不審車両に乗り込み、そのまま逃走を図った。
「テロリストが車両で逃走中!」
現場からの悲痛な叫びが、無線を通じて総理官邸に届いた。松沢は思わず息を呑んだ。人質を盾に取るという非情な手段に、彼女の正義感が激しく揺さぶられる。
「松沢! 動くな! 冷静に対応しろ!」
住本が、感情を抑え込むように低い声で指示を出す。彼の目は、逃走車両を追うヘリの映像を捉えていた。
「五十嵐、応援部隊の進捗状況は?」
「兵庫県警機動隊、航空隊が臨場。上空からヘリが追尾開始。地上部隊が港外周部で先回りしています。」
五十嵐は、淡々と報告を続ける。彼女の冷静さは、松沢の動揺をわずかに和らげる。まるで、どんなに状況が混乱しても、彼女の頭脳は常にクリアに稼働しているかのようだ。
直後に応援要請を受けた兵庫県警機動隊と航空隊が臨場。上空からは県警ヘリが追尾し、その強力なサーチライトが逃走車両を照らし出す。地上では、特殊車両に乗った機動隊員が港外周部で先回り。巧みな連携で、逃走車両を袋小路へと追い込んだ。
パトカーのサイレンが鳴り響く中、車両を強制停車させ、乗車していたテロリスト3名(船内にいた2名と、おそらく陸上での協力者1名)を制圧・逮捕した。激しい抵抗はあったものの、機動隊の迅速な対応により、さらなる被害は防がれた。
【報告】
「逃走車両は県警機動隊によって強行停車、テロリスト3名は現場で逮捕されました」
村松官房長官は、総理に報告を終えた。その顔には、安堵とも、疲労ともつかない複雑な表情が浮かんでいた。
「よし。今のところは、一安心だな。他に続報は?」
総理が問う。危機は回避されたが、まだ全容は掴めていない。
「はい。解放された人質であるアルビナ号船長は、肩部を負傷しており、神戸市民病院に緊急搬送されました。命に別状はないとのことです。」
村松官房長官は、手元の資料を読み上げる。彼女の報告は常に正確で、総理の信頼も厚い。
「テロリストの持ち込み荷物を税関がX線検査した結果、可塑性爆薬10キロを確認。使用可能な状態にあり、即時爆破も可能な仕様であったとのことです。また、自動小銃、ロケット弾、そして発火装置も多数押収されました。」
会議室の空気が、再び凍りつく。10キロの可塑性爆薬。それがもし、都心で爆破されていれば、甚大な被害が出ただろう。
「また、入管によるBICS(バイオメトリック国際協力システム)検査の結果、拘束されたテロリストのうち1名が、国際刑事警察機構インターポールにより国際手配中である人物と一致しました。北朝鮮の元特殊部隊員で、爆破工作の経験を持つ凶悪犯です。」
総理は沈黙したまま、壁のモニターを見つめていた。そこには、警察庁警備局によって指揮された“第四警戒態勢”発令後の全作戦記録がタイムラインで流れていた。不審船の発見から、海上追撃、港湾での突入、そして陸上での追跡と逮捕。全ての作戦が、奇跡的な速さと正確さで実行された。
これはまだ「未遂」である。だが、その裏に潜む意図を考えれば、背筋が凍る思いだった。北朝鮮テロリストが、これだけの武器と爆薬を持ち込もうとした目的は何か。そして、その背後には何があるのか。中国の台湾侵攻の予兆としての、撹乱工作なのか。あるいは、もっと別の、恐ろしい計画が進行中なのか。
真白は、港湾監視モニター室で、回収された金属ケースに目を落とした。冷却されたままの生体サンプル群と、一枚の光ディスク。ディスクには軍事仕様の暗号がかけられている。真白は、そのディスクに触れながら、静かに呟いた。
「これが……全ての始まりね」
彼女はその夜の海を、もう一度振り返った。青く黒い波間に、情報の静かな流れが滲んでいるように見えた 。この小さな島国に、見えない形で忍び寄る、巨大な闇の予兆。
住本は、任務を完遂したものの、彼の表情には決して満足の色はなかった。これは始まりに過ぎないことを知っていたからだ。五十嵐は淡々と次の指示を待ち、松沢は、初めて直面した「国家の安全保障」という現実の重さに、その胸の奥で複雑な感情を抱いていた。彼らの心には、これから始まるであろう、さらなる戦いの予感があった。