第1章:闇の航海、第四警戒、そして水際阻止の攻防
十二月。冬将軍の到来を告げる北西風が吹き荒れる季節だった。関西国際空港の到着ロビーは、真冬の摂氏二度という冷気に包まれ、大きなガラス窓は外気との温度差で白く曇っていた。そのガラスの向こうには、鉛色に沈んだ冬の海が、重く、静かに揺れているのが見えた。波一つ立てずに横たわる水面は、これから始まるであろう嵐の前の静けさにも似て、不気味なほどの存在感を放っていた。
広大な滑走路に、中央アジアの航空会社「TAMIR AIR」の定期便が、その巨体を揺らしながら、ゆっくりと接地する。エンジンの逆噴射音が鈍く響き渡り、やがて機体は誘導路へと滑り込んだ。一般客で賑わうターミナルビルの喧騒から隔離された入国ゲートの一角で、一人の女が、モニターの陰から無言でその光景を監視していた。
彼女の名は、冬木真白。防衛省・情報本部外事課所属、特殊行動任務担当。黒髪を後ろで一本に束ね、その眼光は研ぎ澄まされた刃のように冷たく光る。まるで感情を削ぎ落としたかのようなその表情は、彼女が背負う任務の重さを物語っていた。
彼女の視線の先には、飛行機から降り立った乗客の一人、「カリーム」の姿があった。彼の背筋は不自然なほどに伸び、周囲を警戒するような視線が特徴的だ。見たところ、ごく一般的なビジネスマンといった風情だが、真白の耳には、彼のコードネームと任務内容が繰り返し響いていた。
──コードネーム:カリーム 。
──生物兵器データ運搬人 。
──最終目的地:兵庫・尼崎港 。
真白に与えられた任務は、単純にして冷徹なものだった。「対象が“荷物ごと”日本国内に入国し、港まで無事に運ばれることを確認する」── 。そして、回収のタイミングで“静かに奪う” 。捕獲でもなければ、護送でもない。ただ“奪取”する、それだけの仕事 。法と秩序の影で、国家の安全保障のために汚れ仕事をこなす。それが、彼女の、そして彼女が属する組織の存在意義だった。
カリームが手荷物受取所へと向かう姿を、真白の瞳は寸分の狂いもなく追っていた。その視線には、一切の感情が宿っていない。ただ、任務遂行への冷徹な意志だけが宿っている。
「入ったわね」
真白は耳元に装着したマイクに、短く囁いた。その声は、冷たい空気の中に吸い込まれるように消えていく。通信の向こうから、低い、しかし確かな声が返ってきた。
「了解。こちら“黒瀬”。西ゲート車両部隊、臨戦態勢完了。尼崎北岸へ移動開始する」
黒瀬敬吾。防衛省・情報本部データ解析室所属の彼の声は、信頼の証だった。真白の冷徹な現場判断を、黒瀬の正確な情報分析と支援が支える。この二人の連携こそが、今回の任務の成否を握っていた。彼らは、国家の安全保障という名の下に、影の中で汚れ仕事をこなす者たちだ。彼らの行動が、この国の命運を左右することになる。
その頃、東京霞が関、警察庁地下防災センター。午後13時だというのに、地上とは異なる異様な空気が支配していた。分厚いコンクリートの壁に囲まれた会議室内の警戒灯が、無音で赤く点滅している。その光は、まるで血の色のように、壁に不吉な影を落としていた。
「第三警戒態勢から、第四警戒態勢へ変更だ」
警察庁警備局長、賀正太郎の声が、会議室内に低く響いた。彼の声には、感情の起伏がほとんどない。しかし、その低い声の中に込められた重みが、この命令の持つ意味の大きさを物語っていた。彼の眼光は鋭く、歴戦の指揮官としての威厳を漂わせている。
「了解いたしました」
理事官が即座に応じ、端末を操作する。壁面にある巨大な電光ボードが、ピッ、と短く乾いた音を立てて数字を切り替えた。
《警戒態勢:第四》
国家レベルの「極度の警戒状態」、つまり“非常直前”を意味する最終段階だ。これは、単なる情報収集の強化ではない。具体的かつ確度の高いテロ情報が、政府中枢に報告され、今にも事態が動き出す可能性があることを意味していた。特に、北朝鮮からのテロリストの都内潜入という、極めて信憑性の高い情報が、この最高警戒態勢発令の決定打となったのだ。中国の台湾侵攻が目前に迫る緊迫した国際情勢の中、日本国内でのテロは、さらなる混乱を引き起こし、国際社会の動向にも大きな影響を与えることになる。
「テロ等への緊急事態への対処体制の強化が喫緊の課題であると考えます」
公安部長が冷静な声で切り出した。その言葉には、決して楽観を許さない現実認識が込められている。彼の視線は、部屋の隅に置かれた日本地図の重要インフラ施設を示す赤い点に注がれていた。
「私も同感です」
賀正太郎は即座に頷いた。彼の視線は、会議室の片隅に設置された、全国の重要インフラ施設の配置図に固定されている。
「特に原子力関連施設への警備強化は最優先課題です。アメリカの同時多発テロ以降、原子力発電設備は最も危険な標的として認識されています。現在、我が国でも警備強化を進めておりますが、必要な装備や機材、さらには車両整備が全く追いついていないのが現状です」
賀正太郎の言葉は、率直で厳しかった。彼は、日本の安全保障における構造的な脆弱性を誰よりも理解していた。彼のキャリアの全てが、この国の防衛に捧げられてきた。その彼が、これほどまでに危機感を露わにするのは、事態が尋常ではないことの表れだ。
「具体的な補足をいたします」
公安部外事第三課・国際テロ第一係長が前に出た。彼の顔には、徹夜続きの疲労が見て取れたが、その声には一切の動揺がない。まるで感情というものが存在しないかのように、淡々と、しかし確かな情報が語られる。
「先般、九州南西海域にて不審船事案が発生しております。前回と同様、停船命令を無視した不審船は、機関砲とロケット弾による反撃を加えてきました。幸い死傷者は出ませんでしたが、**国内の陸上テロにおいても、重火器の使用可能性が非常に高くなっております。**これは、北朝鮮工作員、あるいは彼らと連携するテロリストが、既に国内に重火器を持ち込んでいる可能性を示唆しています。彼らは、通常の手口に加えて、より攻撃的で組織的なテロを計画していると見ています。」
係長の声には、報告書には書かれない現場の切迫感が滲んでいた。不審船事案は、すでに彼らの警戒レベルを一段階引き上げていた。それが、今、第四警戒態勢へと繋がった。テロリストの脅威は、もはや遠い国の話ではない。彼らは、既に日本の水際まで迫り、国内への侵入を虎視眈々と狙っているのだ。
「テロリストが夜間、強力な火器を携えて原子力関連施設に潜入する事態を想定すれば、これに対抗するための機動力・耐弾性を有する車両が必要不可欠です。警察予算内では到底調達できません。軍用水準の車両整備を、早急に検討いただきたく思います」
公安部長が、現実的な要求を突きつけた。警察の装備は、あくまで国内の治安維持を目的としたものであり、武装集団との本格的な戦闘を想定したものではない。しかし、テロの脅威は、その前提を根底から覆していた。国家の安全保障という名の下に、警察は新たな領域へと踏み込まざるを得ない状況に追い込まれていた。
賀正太郎は、一度、目を閉じた。彼の脳裏には、警察組織が長年抱えてきた「警察の軍隊化」という批判がよぎる。それは、警察庁内部でもタブー視されてきた議論だった。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。国家の存亡がかかっているのだ。彼の表情は、まるで鋼鉄でできているかのようだった。
「つまり、現行装備では対処不能ということだな」
彼の低い声が、会議室に響いた。その声には、重い決断を下す者の苦渋が滲んでいた。
「軍用車両の導入……それも選択肢ということか」
「さようでございます」
公安部長が短く応じる。言葉の応酬は最小限だったが、その中に込められた意味は、とてつもなく重い。
会議室に一瞬、緊張が走った。軍用車両の導入は、警察の役割を大きく変えることになる。それは、政治的にも大きな波紋を呼ぶだろう。世論の反発も予想される。しかし、賀正太郎は、国家の安全保障を担う者として、その決断を下す覚悟を決めていた。彼の表情は、まるで鋼鉄でできているかのようだった。私情を挟まず、ただ任務を遂行するプロフェッショナルとしての顔がそこにあった。
午後2時12分。兵庫・尼崎西宮芦屋港湾区域。北岸側倉庫群エリア。
潮の香りに混じって、鉛のように重いエンジンオイルの匂いが漂っていた。湾岸独特の、鉄と油と海の混じり合った匂いだ。真白は防寒ジャケットの下に、薄型のタクティカルベストを着込んでいた。その内ポケットには、サイレンサー付きのGlock19が収まっている 。発砲音は2メートル先でも聞こえない、特殊部隊仕様だ。彼女の指先が、わずかに銃身の冷たい感触を確かめる。
「アルビナ号、到着10分前です」
耳元のインカムから、部隊通信が入る。声の主は、警視庁公安部外事第4課作業班主任、住本健司だ。彼の指示は冷静で的確、まるで機械のようだった。その冷徹さは、「公安の魔物」と称される彼の所以だ。住本の隣には、理性的な思考力と鋭い観察眼を持つ五十嵐彩音巡査部長が、端末を操作しながら情報収集にあたっている。彼女もまた、住本同様に感情を表に出さず、任務を忠実に遂行するプロフェッショナルだ。そして、その背後には、正義感は強いものの、外事警察の非情な任務にまだ戸惑いを隠せない若手、松沢陽菜巡査長が、緊張した面持ちで無線を傍受していた。彼女の表情には、この異様な緊迫感に対するわずかな恐怖と、それでも任務を全うしようとする固い意志が混じり合っていた。
「港湾ゲート封鎖完了。海保、警察、税関、入管、すべて配置済み」
住本の無線報告が続く。真白は、港全体に張り巡らされた警戒網を感じ取っていた。陸と海、そして空からの監視。完璧な封鎖。しかし、彼女の直感は、何か別のものが潜んでいることを告げていた。
「不審車両の侵入には?」
真白が問うと、黒瀬から即座に返答があった。
「一切の動きなし。だが、裏路地に1台、5分前から停車したままの黒のバンあり」
真白は眉をひそめた 。それは、想定外の存在だった。カリームの密入国を狙うテロリストは、通常、港湾労働者に偽装した仲間や、小型ボートで逃走を図るケースがほとんどだ。車両での潜伏は、彼らの手口としては珍しい。
「それ、近づく前にドローンで確認させて。運転席に人影があったら排除対象」
真白の命令は、冷酷だった。感情を挟む余地は一切ない。人影があれば、それはテロリストの協力者。迷わず排除する。それが、彼女に課せられた「奪取」の任務を完遂するための手段だった。
黒瀬からの確認が即座に入る 。
「殺す気か?」
黒瀬の声には、わずかな動揺が混じっていた。彼は真白の冷徹さを知っているが、それでも人の命を軽んじるような命令に、わずかな倫理的葛藤を覚えたのだろう。
「殺さなきゃ、こっちが死ぬかもよ」
真白は無表情で応じ 、港の南岸を見やった 。夜の海が、波間の静寂を装っていた 。その静寂が、かえって不気味さを際立たせる。彼女の言葉は、テロ対策の最前線で働く者の、冷徹な現実を突きつけるものだった。彼らの任務は、命を奪うことではなく、この国の安全を守ることだ。しかし、そのためには、時に躊躇なく引き金を引く覚悟が必要となる。
午前2時21分。パナマ船籍の貨物船「アルビナ号」が、静かに北岸に接岸した 。巨大な船体が、港の照明を遮り、闇を一層濃くする。港湾労働者に偽装した公安部隊が、船内へ立ち入り検査を開始する 。その中には、住本、五十嵐、松沢の姿もあった。彼らの任務は、ここからが本番だった。船内に潜むテロリストと、その持ち込む生物兵器データを確実に確保すること。
最初に乗り込んだのは税関職員 。次に入管 。そして、その後に真白と黒瀬が続いた 。船内の通路は薄暗く、錆びた鉄の匂いが立ち込めている。彼らは、まるで獲物を追う獣のように、静かに、しかし確実に、目的の場所へと足を進めていた。