第八話 決起の烽火
あの戦いから、二十日あまりが過ぎた――
斎が父・葛城正親の死を継ぎ、初陣を制して以降、葛城軍は小規模な敵領を着実に取り込み、勢いを増していた。
旧来の中立諸侯は次々と動きを見せ、強国たちもまた、葛城領の伸長を無視できなくなりつつある。
戦後のわずかな静寂を経て、再び軍議が開かれたその日、薄曇りの空が葛城の陣を覆っていた。
遠くで鍛錬の掛け声が聞こえるなか、斎は静かに軍図を見つめていた。
火鉢にかざす手は冷え切っているはずなのに、心の奥の熱だけが静かに燻っていた。
「……戦は、勝てばよい。そうだろう?」
呟くように言った声に、同じ幕舎にいた稲生と沙耶が振り返る。
「珍しく、弱気ですか?」
沙耶がにやりと笑う。
「それとも、若さゆえの憂い?」
「どちらでもない。ただ……今日は寒いだけだ」
そう答えた斎の声は、冗談ともつかず、真ともつかぬものだった。
沙耶は黙って茶を淹れる。湯気の立ちのぼる湯呑を、斎の前にそっと置いた。
「殿。戦はすぐそこまで迫っております。お気持ちの冷えを、少しでも和らげればと」
稲生は黙っていた。だがその眼差しは、言葉よりも雄弁だった。
斎は火鉢の熱に手をかざしながら、呟いた。
「……我は、勝たねばならぬ。だが勝つたびに、何かを失っている気がしてならぬ」
沙耶は一瞬だけ目を伏せ、そして微笑んだ。
「それでも、進まねばならぬのでしょう。殿は――いや、貴方は、止まれぬ人ですから」
稲生もまた、小さくうなずいた。その時、陣の外から兵が駆け込み、報を届ける。
「伝令!前線より報!敵軍、明朝には峡谷に布陣予定とのこと!」
斎は立ち上がった。声は低く、だが確信に満ちていた。
「皆を集めよ。今宵、烽火を上げる。――我らが決起の時だ」
外に出た斎の眼前、灰色の雲の向こうで、遠く狼煙があがっていた。
※ ※ ※
烽火が上がった夜から、三日。
葛城軍は着々と進軍準備を整え、明日未明には峡谷の手前へと進出する運びとなった。
その前夜。
兵も将も静かに英気を養う中――私と稲生、ふたりの姿は陣の外れにあった。
焚き火が、夜気を揺らしていた。
稲生彰人は、火の前に腰を下ろし、静かに愛刀の手入れをしていた。
「……寒くないか?」
不意に声をかけると、稲生はちらりと横目でこちらを見やる。
「殿こそ、そんな薄着で」
「夜の冷たさも……剣の重さも、忘れぬようにと思ってな」
私も傍らに座り、火を見つめた。しばらく、互いに言葉はなかった。
ただ焚き火の爆ぜる音だけが、静かな夜を切っていた。
「……変わったな、殿」
稲生が呟くように言った。
「策で勝つ。それは、あの方――先代も望んでいたことだ。
だが、今の殿は……それ以上を見ている気がする」
「それは、悪いことか?」
私の声は穏やかだった。
火の光が、頬の影を濃くする。
「……わからぬ。だが、殿が戦で勝つたび、俺は少しずつ……
追いつけなくなっている気がしてならない」
私は黙った。だがその沈黙には、拒絶の色はなかった。
「それでも、まだ……戻れる。俺は、そう信じてる」
稲生は、刀をそっと納めた。
「何よりも、今の殿が“間違っている”とも言い切れない。だからこそ……」
私は、わずかに目を細めた。
「彰人、お前がそう言ってくれる限り、俺は――進んでいける」
焚き火の炎が、夜の帳に揺れていた。
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