第六十四話 覇道、火に誓う
焚かれた香が、薄く煙をたてていた。
その香の先、斎はひとり、天幕の机に向かっていた。
傍らには、あの布帳──沙耶が最後まで離さなかったという、形見が置かれている。
斎の筆が走る音だけが、空気を裂いていた。
地図の上に描かれる線は、明らかに“軍略”ではなく、“罰”の線であった。
雲居がそっと天幕をくぐる。
「……斎様、補給線の再編、完了いたしました。兵も五分ほど……」
言葉の途中で、斎が筆を止めた。
「──民家を捨てろ。敵の退路となる道筋にある村々には、火を放つ」
「……っ、斎様。それでは、まだ避難していない者が──」
「沙耶は、“民がいる限り、葛城は滅びぬ”と言った。ならば、民を守るには“根”を断たねばならぬ」
静かに、しかし確かに、斎の目が揺れていた。
「これは報いだ。敵が踏み荒らした土には、血をもって応える。……それが、覇道というものだ」
雲居はわずかに目を伏せ、唇を噛みしめる。
沙耶がいたなら、何と言っただろう──その声が胸を締めつける。
だが、彼は言葉を呑み、ただ一礼した。
「……御意」
その背を、斎は見送ることなく、再び筆を取る。
その筆跡は、相変わらず誰にも読めぬほど乱れていたが──
そこには確かに、“怒り”と“断絶”が滲んでいた。
──天幕の外、空が赤く染まっていた。
それは、朝日か、炎か。
いや──いまの斎には、どちらでも構わなかった。
「……沙耶。そなたが残した“影”は、もう……戻らぬ」
風が布帳を揺らす。
斎はそれをそっと押さえると、声もなく、命を下した。
「全軍、伊火より転進。“鬼門州”を討つ」
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