第六十二話 影、葛城を穿つ
──静けさの中に、何かが揺れていた。
葛城領、北辺の村落。
朝露が地を湿らせ、農の民たちは普段通りの一日を始めていた。
「……妙だな。昨日まであった見張り台が、今朝は折れておったぞ」
「鹿でも突っ込んだんじゃねえのか?」
「いや、火がついた跡があった。しかも……人の足跡が一つもない」
老農夫のつぶやきに、若者が笑って応じた──その瞬間、空気が変わった。
風が止み、林の向こうで何かが軋む音。
次の瞬間、――火柱が上がった。
「火だぁああああああああっ!!」
「なんで!? なんでうちの蔵が!?おいッ、誰か来てるぞォ!」
黒煙が立ち上り、駆け出す村人たちの背後に、“無言の兵”たちが現れた。
顔を覆面で隠し、旗も持たぬその軍勢は、整然と、だが容赦なく村へと迫る。
──葛城の背を討つ者、それは、まさに“影”そのものだった。
◆
林を駆ける沙耶の目が、鋭く細められる。
「……ここにきて、分岐が多い。わざと攪乱している……」
地に残る蹄の痕、巻き上げられた土。だが、その先には不自然に小さな荷車の轍。
軍規格の装備ではない。民のふりをして通れるよう細工された偽装軍だ。
「こんな手まで使うとは……。これはもう、“侵略”と呼ぶべきもの」
口を引き結び、腰の短刀に手を添えた。
その時──どこか遠く、煙の匂いが風に乗って届く。
「……っ!」
振り返り、空を仰ぐ。
林の向こう、陽の落ちかけた空に、黒い煙が一筋、立ち昇っていた。
◆
「“背を焼け”──とのご命令だ」
無表情な伝令が告げる声を、男は黙って聞いていた。
その名は、日下部 練。
黒部の信任厚い副将。冷酷無比にして、効率を最重視する。
「村三つ、焼き払えば流通線が絶たれる。葛城の兵站も乱れる」
「それに、火は民の怒りを買う。あえてやる意味があるのか?」
側近が問うたが、練はただ呟いた。
「……“黒部様”が言われたのだ。『貴様ら、裁きを受けるに値せぬ』とな」
馬の蹄が鳴る。火が舞う。
──これは、炎による宣告。誰に届けるでもない、始まりの音だった。
◆
沙耶は走っていた。
林を抜け、風を裂き、荒野の縁へ。
──そして、見た。
沈む陽のなか、燃え上がる村を。
「…………っ!」
言葉が出なかった。
ただ、胸の奥がざわめいた。焼け焦げる匂い。立ち尽くす者の影。
斎様が……ここにいれば。
あの策士の目が、すべてを見通していれば──
「私が……止めなければ」
影の名を背負う者が、静かに踏み出す。
まだ火が届かぬ村の奥へ。
誰かが、生きているかもしれない。
風の音が、すべてを吹き飛ばすように鳴った。
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