第六十一話 焔の地、開戦す
――海が、吼えた。
それは、伊火の荒れた沿岸に響く咆哮。
荒波を割り、現れたのは白き帆をはためかせる水軍──白嶺海国の戦船群であった。
「全艦、陣形そのまま──突撃!」
白嶺は自ら前艦の舳先に立ち、右手を勢いよく振り下ろす。
風が、彼女の黒髪を荒く撫で、陽を浴びた小麦色の肌に汗が光る。
「水軍に海を渡らせるなら、地獄まで付き合わせる覚悟をしろ……伊火!」
火砲が唸りをあげ、岸の砦を穿つ。
海上からの強襲──白嶺の戦いは、まるで舞うように、しかし容赦なく敵を斬り裂いていく。
「姉上、左の岩場、敵の伏兵!」
「篝、そっちは任せる! こっちはこのまま中央へ!」
水しぶきが船体を叩くたび、篝の指示が次々と飛ぶ。
統制された水軍の動きは、まるで一つの生き物のようだった。
________________________________________
――その頃、陸の道。
「斜面の下に伏兵……いや、火口の風を使って、毒煙をこちらに流すつもりか」
雲居は岩場の影から敵陣を睨み、風の流れを手の甲で感じ取る。
彼はすぐさま斥候に命じた。
「南東の尾根から回り込め。煙の元を断ち、同時に伏兵を挟撃するぞ」
「はっ!」
奇策の応酬。その中で彼は微かに天を仰ぐ。
(……斎様。これは、戦ではない。狩りだ)
そのとき、天幕内では──斎が筆を走らせていた。
だがその文字は、斎にしか読めぬ形。
軍図に走るその線が、敵の裏を突く一手となる。
「この戦、八分で終わらせる。
白嶺の動きに乗じて、地形を制す。雲居には東尾根を任せよう」
隣の副官がこっそりその筆跡を見て、首をかしげた。
(……何と書いてあるのだ、この文字は)
斎は顔を上げることなく呟いた。
「敵は、すでに網の中だ」
________________________________________
――同じころ、葛城本陣の背後。林の中。
沙耶は、薄暗い茂みの中を進んでいた。
足音を忍ばせ、草を払い、枯枝の折れる音すら殺しながら。
その目が、獣道の端に残された痕跡をとらえた。
──靴跡。それも、葛城でも伊火でもない、見知らぬ紋の靴。
「……やはり。これは、別の勢力の動き」
掌に握った布に、素早く印を記していく。
「狙いは、伊火ではない……斎様の留守を突いて、葛城を……」
その名を呟こうとして──彼女の中に、一人の男の面影が過った。
(稲生様……あの人なら、どう動いたかしら)
ほんの一瞬、寂しさが彼女の瞳に宿る。
「……私は、まだ“斎様の影”でありたい」
そう呟くと、沙耶は斎のもとには戻らず、別の道へと消えた。
________________________________________
――夜、伊火から遠く離れた荒野。
焚火の光が、岩肌に妖しく揺れる。
その前で、男が一人、布を広げて地図を確認していた。
彼の背後に立つ別の男が、ぽつりと呟く。
「葛城の動き、順調なようで」
「それで良い。奴が伊火に縛られるほど、こちらの手は伸びる」
声の主は、姿を見せぬまま、低く笑う。
「伊火など、ただの焔よ。真に焼き払うは、葛城の背骨……」
火が、ぱちりと音を立てる。
「──黒部様の“覇”は、ここより始まる」
夜は、なお深く、静かに燃えていた。
◆――お読みいただき、ありがとうございます。
登場人物たちの言葉や生き様に、少しでも感じるものがあれば嬉しいです。
ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。
次回も、どうぞよろしくお願いします。




