第六話 忠臣の登場
戦が始まったのは、夜明け前の霧深い谷だった。
敵将・馬伏一派は、葛城軍の備えが薄くなった“狭間の谷”へと侵攻した。
それは、斎の予測通りだった。
斎は報を受けると、囲炉裏を挟んだ軍机の上、広げられた地図に手を伸ばした。
木製の駒――敵軍を示す赤い印を摘み、音もなく谷へと滑らせる。
「……誘いに乗ったか。では、始めようか」
「――第一陣は退け。敵に進ませよ。逃げ場は、敢えて残せ」
稲生 彰人はその指示を受け、一瞬だけ疑問を浮かべたが、すぐに頷いた。
「奴らに“勝てる”と信じさせる、ということか……」
谷間の戦場。
葛城軍の前衛が意図的に後退し、敵軍は勢いを増して突き進む。
だがそれは、斎の描いた“道”だった。
「第四隊、裏道より回り込み、敵の補給線を断て。……時が来たら、狼煙を上げよ」
背後に伏せた別働隊が動く。
谷を取り巻く高地に配置された狙撃兵と火矢部隊が、敵の頭上を封じる。
斎の描いた挟撃が、音もなく完成しつつあった。
「……これが、戦だ」
誰に言うでもなく、斎は呟いた。
恐怖ではなかった。
そこにあったのは、静かな確信と、少しばかりの昂ぶり。
“読み”が当たる快感――それは、冷徹な策士の胎動だった。
敵陣では、馬伏高久が叫んでいた。
「な、何だ……なぜ包囲が……っ」
高地から放たれる火矢、断たれた補給線。
退路の谷にも、斎の罠が張られていた。
「我らは……誘い込まれたのか……!」
その瞬間、彼の背後に稲生の影が迫っていた。
「斬り結べい、我が名に恥じるな!」
稲生の隊は、猛然と敵の中心へ突撃した。
土煙を巻き上げ、敵陣を突き崩し、副将の軍馬を見つけると眉をひそめる。
稲生の太刀が一閃し、敵副将の兜が宙を舞った。
「敵副将、討ち取ったり!」
その報せが谷に響いたとき、兵の士気は沸騰した。
「敵将、退く気配あり!」
「殿、追撃の機を――!」
「押せば潰せましょうぞ!」
諸将が席を立ちかけたその瞬間、斎が静かに口を開いた。
「……追うな。逃げ場は、残せ」
その声音には、わずかな威圧があった。
即座に全てが静まり返る。
やがて敵軍は戦意を失い、混乱の中で崩れ去った。
わずか一日、わずか一谷の戦いで、斎は敵を退けてみせた。
勝利の報が斎のもとに届いたとき、戦場で一人の男が注目を集めていた。
その男、名を阿曽原 一成という。
中隊の長にすぎなかったが、この戦で敵の主力部隊を切り崩す決定打を放った猛将である。
「若殿の策……痺れましたぞ!」
甲冑姿のまま駆け込んできた阿曽原は、興奮を抑えきれぬ様子で両手を突いた。
「勝つために、ここまで徹するとは!……まこと、殿は戦を知っておられる!」
息を荒げながら、顔を上げる。
「命、預けとうございまする!」
その声に、諸将がざわつく中、斎は静かに頷いた。
「……ならば、命を賭ける覚悟を問おう。覇の道は、決して平坦ではない」
「はっ。どこまでも、お供仕りまする」
そのやりとりを見ていた稲生は、無言のまま視線を落とした。
(ああやって、人は主君を選ぶのか……)
だがその心の奥に、微かに芽生えたものがあった。
斎が非道を選び、なお人を惹きつけるその姿に、言い知れぬ違和感が、小さな棘のように突き刺さっていた。
【次回予告】新たな忠臣、揺らぐ忠義──対話の夜。
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