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覇道の果てに、王座は泣いた  作者: 望蒼
序章 ──群雲の時代
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第五十三話 名は、霧の向こうにて囁かれ

淡い霧が、まだ地を這っていた。

戦は終わったというのに、大地は静かに呻き続けているようだった。


斎は、軍図を睨みつけていた天幕を後にし、外に出た。

冷えた空気が肺に刺さる。だが、それが心地よいとさえ思った。


背後で、幾つかの軍靴の音が重なる。雲居が来た。


「殿──すでに戦後処理は、おおよそ片づきました」


「……水場の者たちは?」


「兵どもは混乱しておりましたが……命を落とした者はいません」


「それは運がよかったな」


斎の声に、どこか他人事のような響きがあった。

雲居は、その横顔をちらと見たが、何も言わなかった。


沈黙が落ちる。

そして斎が、ぽつりと呟いた。


「人は、名を与えられることで獣と分かたれる……だが、時に名すら霧の向こうに消える」


雲居が意味を問おうとしたその時──


「斎殿!」


医療天幕の方から、慌ただしい足音が駆けてくる。

沙耶だった。


血に濡れた衣を翻しながら、彼女は駆け寄ると、肩で息をしながら言った。


「……民の間で、言葉が流れています」


「言葉?」


「“敵軍を毒で鈍らせた葛城の覇王”だと──“鬼の王が霧より来た”とも」


斎は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

沙耶の瞳には怒りはなかった。


ただ、深い戸惑いと、どうにもならない悲しみがあった。


「非道な策を……とは言いません。けれど……」


その声に込められた揺らぎを、雲居は黙って受け止めていた。

沙耶の視線の強さに気づきながらも、彼は静かに目を伏せる。


「──けれど、これが『王の在り方』だとは、思えぬか」


斎の声は冷ややかだった。だが、その奥にかすかな震えがあった。

沙耶は言葉を失い、ふと顔を背けた。


「……もう、言葉は届かないのですか」


その呟きだけが、霧の中に溶けた。

雲居は、沈黙の中で二人を見比べた。


葛城斎──その背には、もう戻れぬほどの影が深く、濃く刻まれている。

沙耶──その目には、なお失いたくないものが残っている。


やがて雲居は、穏やかに口を開いた。


「……私は、覚悟しておりました。

斎様が“人であること”より、“王であること”を選ぶ時が来ると」


その声音に揺らぎはない。


「人の道に照らせば、この策は非道と言われても仕方ないでしょう。

けれど──私は、それでも必要だったと考えております」


沙耶がわずかに目を見開く。


「斎様が民を守るために、ご自身の手を汚されるというのなら……

私は、その汚れを知った上で、支え続ける覚悟です」


静けさが落ちた。


沙耶の唇が、何かを言いかけて震え──そして、言葉にならなかった。

彼女の手はかすかに揺れていた。


(けれど……私には、あの背が、少しずつ遠くなっていく気がしてならない)


その想いを飲み込み、沙耶は静かに身を引いた。

斎は何も言わず、ただ霧の向こうを見つめていた。


________________________________________


──夜更け。


葛城軍の天幕街から少し離れた小道。

沙耶は、外套をまとい、風の音に耳を澄ませていた。


「……ずいぶんと用心深く来られましたね」


木陰から、旅装の男が姿を現す。

稲生 彰人──かつての副将にして、斎の最も古い友。

だが、彼の目には警戒が宿っていた。


「殿の御命令で私を捜しておられるのではないと、信じてよろしいのですか?」


「……いいえ、これは私の独断です」


沙耶は深く頭を下げる。


「あなたにしか、頼めないことがあります」


「……殿に、会ってくれと?」


稲生はすぐに察し、そして短く息を吐いた。


「申し訳ありませんが、それは……できません」


「理由を、聞いても?」


「殿は……私の知るお方では、もうなくなってしまわれた。民を守るために非道を選ばれるご覚悟。

それを否定する気はありません。ですが、私は……

あの方の“人としての声”を、もう聞ける気がしないのです」


沙耶の肩がかすかに震える。

それでも、彼女は前を見た。


「それでも、斎様の中に“人”が残っていると、私は信じています。

殿の御心に、届くかどうかは分かりません。ですが、あの方が誰にも見送られず、孤独のまま王となられる姿だけは、見過ごせません」


沈黙が落ちる。

稲生は目を伏せ、少しの間考えるように言葉を探した。


「……沙耶殿。殿は、あまりにも高みにおられる。

それゆえに、誰の声も届かぬところに行かれようとしている」


「……私は、斎様がそうなる前に、何かひとつでも……思い出してくださればと願っています」


稲生の顔に、わずかに迷いが走る。

だがその奥には、確かにかつての情が残っていた。


「……今は応じかねます。ですが──もし、どこかに“斎様”がまだいらっしゃるなら……その時は、私の方から参上いたします」


沙耶は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます……彰人様」


二人の影が、風に揺れる木々の中に溶けていった。

◆――お読みいただき、ありがとうございます。


登場人物たちの言葉や生き様に、少しでも感じるものがあれば嬉しいです。

ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。


次回も、どうぞよろしくお願いします。

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