第五十二話 覇道、霧を破る
霧が、ゆっくりと薄れはじめていた。
白く閉ざされていた谷底が、朝の光を受け、戦場の輪郭を現し始める。
天義軍はなお混乱の渦中にあったが、顕真の声がそれを押しとどめる。
「怯むな! 我らは天義の兵、正義はここにある!」
馬上の顕真が剣を振り上げると、近くの兵が一斉に声を上げた。
疲弊し、体は重い。それでも、王が前に立つだけで、兵の心は呼応する。
槍が突き上がり、楯が前に並ぶ。押し返されていた陣が、わずかに粘りを見せた。
「押し返せ! 正面突破だ!」
剣閃が霧を裂き、馬が嘶く。
その瞬間、霧の中から葛城軍の側面突撃が襲いかかった。
伏兵の槍が、鈍った天義兵の列を切り裂く。
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高台の斎は、冷徹な眼で戦場を見下ろしていた。
伏兵の動きは予定通り。霧が晴れれば、地形の優位が一層生きる。
だが、胸の奥では、別の感情が静かに疼いていた。
(……私は、また人を泥に沈めている)
短く息を吐くと、隣の雲居に低く告げる。
「左翼を締めろ。谷底に押し込み、逃げ道を断て」
「はっ!」
雲居は即座に伝令に手を振る。
「左翼一番隊、崖沿いに進め! 二番隊は間隔を詰めろ、包囲を狭める!」
伝令が駆け下り、怒号と足音が霧の中に溶けていく。
雲居の目は鋭く、わずかな戦況の変化も見逃さない。
斎はその様子を横目に、大局を見据える。
(勝たねばならぬ……だが、これが覇道)
胸の奥で小さく疼くものを押し殺し、斎はさらに命を下す。
「右翼は待機。敵が反撃に出た瞬間、挟撃する」
雲居は頷き、すぐに指示を飛ばす。
「右翼、構えを保て! 敵が下れば一気に突くぞ!」
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高台の後方で、沙耶は風に吹かれながら戦場を凝視していた。
膝の上で握った拳は白く、息は荒く、知らぬ間に肩が震えている。
霧が晴れていくごとに、血と鉄の匂いが鼻を刺し、胃の奥が冷たくなる。
「……こんな……」
思わず小さく漏れた声は風に消えた。
彼女の目には、槍に貫かれて倒れる兵の姿、馬に踏まれ、叫ぶ者の影が映る。
胸が痛み、足元がふらりと揺れた。思わず天幕の支柱に手をかける。
それでも──目を逸らせなかった。
あの背中を、見失いたくなかった。
斎の姿は遠く、霧を裂く矢と煙の向こうにある。
冷徹な指揮官としての彼の姿が、彼女の胸に焼き付く。
(斎様……覇道は、もう誰にも止められぬ……)
涙がにじみそうになるのを瞬きでこらえ、沙耶はまっすぐ前を見た。
恐怖と誇りがないまぜになった視線が、戦場のすべてを捉えていた。
風が頬を撫でる。
霧は消え、戦は、覇道の名の下に燃え上がっていた。
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