第五十話 火蓋は、静かに
黎明の帳が、山野を薄く覆っていた。
白い霧が谷を這い、冷たい風が草を揺らす。
葛城本陣は静まり返っていた。
篝火の炎が小さくはぜる音と、遠くで馬が鼻を鳴らす声だけが響く。
軍地図の前に立つ葛城 斎は、じっと霧の向こうを見ていた。
その眼差しは、遠く、戦場の未来を見据えている。
「……頃合いだ」
低く呟いたその声に、近くで控えていた雲居悠仁が即座に膝をつく。
斎は、淡々と命を飛ばした。
「前衛、伏兵を動かせ。第二陣は待機、まだ矢を放つな。
……霧と“あの策”が味方する」
斎の横顔は冷徹そのものだった。
だが胸の奥で、己に言い聞かせる。
──非道で構わぬ。この一戦で決める。
敵兵を削ぐのは、殺すためではない。戦を長引かせぬためだ。
*
同じ頃、天義軍は峠を下り、霧の谷へと足を踏み入れていた。
「前方、視界わずか五十。慎重に進め!」
号令が飛び、馬の蹄と足軽の草鞋の音が重なる。
だが列のあちこちで、息を荒げる音や、足を取られる音が混じっていた。
薬に鈍らされた体が、わずかに遅れて動く。
「はぁ……く、足が……」
「しっかりしろ、踏ん張れ!」
兵の顔は青く、目は虚ろだ。
顕真はその異変を感じ取っていた。
(……やはり、斎の策か。毒ではない。だが、これも戦)
怒りが胸に込み上げる。
だが同時に、心の奥で認めざるを得なかった。
──奴は、勝つために己を穢す覚悟をした。
*
その瞬間、霧を裂く鋭い音が響いた。
──ヒュンッ!
矢の雨が、足取りの鈍った天義兵を襲う。
反応が遅れ、盾を上げる前に矢が肩や足に突き立った。
次の瞬間、轟音。
土塁に仕込まれた丸太と岩が崩れ、谷底に転がり落ちる。
慌てて身を翻す兵も、動きが鈍く、回避は遅れた。
「伏兵かっ──!」
叫びが響く。
霧の中からは、葛城軍の短弓隊が矢を放ち、すぐに木陰や岩陰に消える。
「くっ……! 陣形を崩すな、前進だ!」
顕真が叫び、馬を進める。
鈍った兵たちを励まし、己の剣に手をかける。
非道を憎みながらも──その覚悟を心で噛みしめる。
*
高台から戦場を見下ろす斎は、冷ややかに呟いた。
「……効いているな。だが、これは序の口だ」
風に乗り、馬の嘶きと叫声が届く。
矢が放たれ、槍がぶつかる音が霧の中にこだまする。
足取りの鈍った敵は、想定通りに動けず、じわじわと葛城軍の包囲網に絡め取られていく。
雲居が息を詰める隣で、斎だけが動かぬ瞳で戦を見つめていた。
──この戦は長くは続かぬ。
己の心を泥に沈めても、必ず勝つ。
それが覇道の選んだ道。
静かに始まった火蓋は、やがて大地を焦がす炎となる。
そのことを知るのは、まだこの霧の中の者たちだけだった。
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