第四十八話 静かなる毒、動かぬ兵
軍議の帳が上がるより前、すでに“戦”は仕掛けられていた。
天義国──北東に広がる豊穣の平野。その境をなす峠の水場にて、先遣の兵たちは朝餉の準備を進めていた。山を越えれば敵地、慎重に、されど確実に進軍するのが顕真の軍の常である。
その水場を覗く影があったことを、彼らは知らない。
*
「……おかしい。どうにも、進軍が重い。兵の足並みが揃わぬ」
副将の一人が、膝をついて報告する。
「疲労の蓄積かと存じますが、今朝から下痢や怠さを訴える兵が相次いでおります。水は昨夜と同じく峠の湧き水を──」
顕真は黙して聞いた。部屋の片隅には、書状の山。その中の一通、葛城軍の動きに関する報が目を引いた。
「……“戦は常に先に仕掛ける者が勝つ”、か」
小さく呟いたその言葉を、側近は聞き逃さなかった。
「陛下、まさか……何者かが、あの水場に……?」
「確証はない。だが、動けぬ兵を抱えたままでは、斎の策に踊らされるだけだ。対応を急げ。軍医たちにも診させろ」
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一方、葛城本陣。
白布の軍地図には、見慣れぬ走り書きが無数に踊る。その文字は誰にも読めない。唯一の解読者は、筆を持つその男──葛城 斎ただ一人。
「……少し、進軍が鈍ったようですな」
報告を終えた雲居が、わずかに唇を歪める。
「だが、顕真のことだ。すぐに手を打つだろう」
「それでも、“半日”は動けぬ。その間に、白嶺との連携を成す」
「篝殿が伊火との調整に動いておりますが……白嶺殿の応諾は?」
「向こうの“私心”に賭けた。“大義”ではなく“損得”で動く女だ。わかりやすくて良い」
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そのやりとりを、遠巻きに見つめる沙耶の瞳に、微かな翳りが差す。
──毒ではない。ただ鈍らせるだけ。兵を殺すのではない。だが、それは“清き戦”と呼べるか。
斎の采配は、あくまで冷徹にして非情。そして、それが常に正解を導いてきたことも、彼女は知っていた。
(……それでも、どこかで、願っていた。斎様が……そこまでは踏み込まぬと)
軍地図の端に置かれた小さな壺に、目を落とす。
薬草の匂いがかすかに残るその器──戦わずして“敵を削る”道具。
沙耶は、ただ静かに、唇を噛んだ。
*
遠く、まだ夜も明けきらぬ伊火の荒野。
そこに立つ二つの影。雲居 悠仁と、白嶺の弟──篝である。
「……条件は飲んだ。だが、姉は、“あの男”をまだ信用しているわけではない」
「信用など求めぬ。ただ、利がある限り、我らは共にある」
「ならば、“共闘”ではなく、“利用”だな。──互いにな」
焚き火の火花が、冷えた風に舞った。
*
その火花は、やがて戦の火となる。
水に溶かされた“毒なき毒”は、兵を止め、思考を鈍らせ、剣の重みを倍にする。
剣が交わる前から、戦はすでに始まっている。
その手を染めた者──葛城 斎は、何のために剣を取るのか。
それを問う者は、いまや隣にいない。
斎はただ、進む。
「覇道」の名のもとに──
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