第四十六話 名もなき手紙、風の中に
風が吹いていた。
山あいの宿場町の外れ、稲生 彰人は、一人で焚火の前に座していた。旅装束の肩には埃がつき、剣も鞘に沈んだまま動かぬ。
薪がはぜる音だけが、寂しく響いていた。
火の明かりに照らされる懐から、細く折り畳まれた文がのぞく。
淡い香が、かすかに香った。
──沙耶からの、報せである。
彼女は葛城軍に残り、斎の傍らに控えながら、ひそかにこうして手紙を送ってくるようになった。返事を求めているわけではない。ただ一方的に、彼の“変化”を綴るのだ。
彰人は、折り目をなぞるように手紙を開いた。
「……先日、斎様は敵軍の水源に“薬”を仕込むよう命じました。毒ではなく、あくまで“鈍らせるもの”と。……けれど、私はもう、どこまでが境界なのか、分からなくなりそうです。」
文面は整っていた。だが、筆跡の揺らぎが、書き手の心を語っていた。
──沙耶は、迷っている。
斎の非情な策に、かつては顔をしかめながらも支えようとしていた彼女が、今はその“理由”すら見失いかけている。
「……らしくないな、沙耶」
ぽつりと呟いた言葉は、火の粉に消えた。
そのまま、また次の文に目を落とす。
「雲居様は今、白嶺殿の弟君と共に伊火国の動きに対処しています。
斎様はそれを“前線の駒”としか見ていないようで……」
「……でも、あの方はまだ、完全に壊れてなどいません。
私が、そう信じたいだけかもしれませんが──」
風が吹き抜け、木々を揺らす。
彰人は目を閉じ、手紙を胸元へと仕舞った。
斎の変化。それは予感していたものだった。
だが、こうして文字で、沙耶の手から、伝えられるたび──否応なく現実として迫ってくる。
焚火の向こうに、遠く山影が見える。
その先には、きっとあの男がいる。
「戻るべきだと思っている。だが……」
彰人は小さく首を振った。
「……今はまだ、そのときではない」
風が、再び吹いた。
名もなき手紙の香だけを残して。
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