第四十五話 正義、戦場に歩を進める
白金に輝く陣幕が、朝露のなかでたゆたっていた。
天義国の大軍がいま、静かに“正義”の名のもとに進軍の準備を整えている。
中央の天幕では、天義王・多岐川顕真が、黙して地図を見つめていた。
傍らには、文官の老臣・稲葉典理と、若き武官・香坂周馬が控える。
「……なれば、御自ら進軍なさると?」
老臣・典理が静かに問う。
顕真はその問に、やや間を置いてから頷いた。
「この戦、避けられぬと見た。ならば、我が旗を先に掲げよう。
──兵に恥じぬようにな」
香坂が思わず一歩、進み出る。
「しかし陛──いや、殿。我が軍の大義は既に世に知られております。
自ら御出馬あそばさずとも、威は保たれましょう」
顕真は、目を伏せたまま答えた。
「“正義”とは、遠くから吠えるだけでは届かぬものだ。民の目が見ている、兵の心も揺れておる……ならば、我が姿を以て示さねばならぬ」
典理が、静かに頭を垂れる。
「──御志、しかと承りました」
顕真は軍地図の上に手を置き、葛城領との境、山峡の道を指さした。
「葛城斎。……あの男は、理を弁じて利を掠める。
言葉を交わした限り、才はあれど──情が薄い」
香坂が眉を寄せる。
「非道、との評も聞かれます」
「……ならばなおさらだ」
顕真は目を伏せたまま、重く言葉を紡ぐ。
「そのような者に、正道は譲れぬ。──剣は理を示すための最後の手段。
されど、我は、今こそそれを帯びねばならぬ」
香坂と典理が深く頭を下げた。
その背後、軍旗が揺れる。
金の鳳凰が刻まれた、青の旗。
それは、天義国の正義を象徴する唯一の意志。
顕真はそっと、卓上の長剣──儀礼用の白鞘を取った。
鞘越しに、深く己の顔が映る。
「……正義は、守るものではなく、築くもの。
そのためならば──我もまた、“剣”を帯びよう」
その言葉が、天幕を満たした空気に凛と響いた。
天義国王、多岐川顕真。
ついに、“自ら”剣を帯びることを決した朝であった。
白嶺の軍が北の海辺に姿を現したとの報せが届いた朝、葛城の本陣では風が騒がしく幔幕を揺らしていた。
雲居は不在。
斎の命により密かに海へと下った彼の姿は、もう数日、戻っていない。
代わりに軍議を支えていたのは、沙耶だった。
軍地図の上、斎は筆を走らせていた。──例のごとく、誰にも読めぬ文字で。
「……薬の準備はどうなっている」
唐突に放たれたその言葉に、傍らに控えていた従者のひとりが、すっと膝をついた。
「既に、命じられた通り、二種類の粉を。ひとつは即効性、ひとつは遅効性。
どちらも水に溶けやすく、味も薄いと」
「良い。“後者”を使え。……毒ではない、ただ“鈍らせる”だけだ」
その言葉に、沙耶は静かに息を飲んだ。
「……斎様。まさか、軍議より先に……?」
「戦は常に“先”に仕掛ける者が勝つ」
斎は、あくまで平然としたまま言い放った。
「敵の進軍経路には水場がある。いっそ、その上流に“流しておけば”よい。
味方の動きも、計算に入れている」
沙耶は、声を押し殺しながら問い返す。
「そこまでして、勝たねばならないのですか」
軍議の空気がぴりりと張り詰める。
斎は、筆を置いた。
「戦とは、勝つためにするものだ」
沙耶はそれでも一歩も引かず、視線を合わせた。
「それは“道理”です。でも……それが、“あなた”の選ぶ道なのですか?」
従者たち、そして軍議の者たちは皆、目を伏せる。
この場で、斎に言葉を返せる者はいなかった。
斎はわずかに目を細めた。
「……沙耶。君は誤っている」
「……何を、ですか」
「これは“私の道”ではない。──“国の未来”のために必要な選択だ」
その声音には、情を挟む余地がなかった。
かつて、誰よりも人を思い、血の上に立つことを嫌った男の──その影は、もはや薄れていた。
沙耶の唇が震える。
それでも彼女は言葉を呑み込み、視線を落とした。
「……心得ました」
風が吹き抜ける。
幔幕の隙間から差し込む光に、遠く潮の匂いが混じる。
白嶺の軍──海風に乗って、その旗が近づきつつある。
沙耶はその匂いを感じた。
かつて、自分と斎が“共に立っていた場所”が、少しずつ遠のいていくのを──
彼女の胸には、かすかな火種のようなざわめきが灯っていた。
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