第三十七話 噂に交わるは影の名
街道を外れた小さな宿場町。
日も傾き始め、夕の帳がそろそろと降りる頃合い。
人の往来はまだ多く、茶屋の暖簾が揺れ、屋台の湯気が通りを包んでいた。
笑い声と商人の呼び声とが混じり合い、旅人らの足も軽やかに感じられる。
その賑わいの端に、ひとり腰を下ろす男がいた。
旅装に身を包み、背に細身の刀。
名を語らず、所在なげに湯を啜る。──稲生 彰人、その人であった。
「……してな、近ごろは“葛城の鬼”と呼ばれておるそうな」
向かいの席に陣取った旅人らが、熱燗の徳利を傾けつつ、世の噂を語り合っていた。
耳に届くのは、作り話のような戦の逸話。
「神代院を討ち果たしたとて、白嶺の女将軍すら一目を置いたとか。
何やら、剣ではなく策でねじ伏せたとかで」
「兵を一人も損なわず勝った、と聞き申したぞ。まことしやかに流れる話にござる」
「されども、あやつは情け容赦のない御仁だとか。
味方を囮にし、飢えた民を敢えて放った……と申す者も」
「ほう、それがしの知る噂では、心通わせぬ将とて、その胸中には鬼ではなく狐が棲んでおるらしいぞ」
どこまでが真実で、どこからが虚構か。
それは誰にも定かではない。だが人は語る。
“斎”という男の名と共に。
稲生は、口にしていた湯がすっかり冷めていたことに、今さら気づいた。
(……斎様が、鬼だと?)
己の胸に、ぽつりと灯る違和の火。
誰よりもあの人の側にいたはずだった。
声を聞き、采配を見、志を知っていたはずだった。
だが、いつの間にか──斎は、遠くへ行ってしまった気がしていた。
「聞いたか? 次は天義の王自ら、斎と対峙するらしいぞ」
「おお、まことか。それはまさに、“正義”と“現実”のぶつかり合いじゃのう」
「して、どちらが勝つと思う?」
「そりゃあ……」
その言葉の続きを待たずして、稲生は立ち上がった。
脇目もふらず、茶代を残してその場を離れる。
夕映えの町を抜け、裏通りへと歩を進める。
西の空が紅く染まり、瓦の端に鳥の影が滑ってゆく。
背後からは、なおも斎の名が聞こえていた。
もはやそれは、稲生の知る斎ではない。噂の中に生まれた別人のようだった。
土の香、風の冷たさ。
ふと立ち止まり、空を仰ぐ。
──かつて、あの背の向こうに見ていた空も、こんな色だったろうか。
稲生 彰人は、目を閉じた。
声もなく、拳を握りしめる。
もう──あの背を、追えぬのかもしれぬ。
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