第三十五話 言葉なき夜、声なき対話
夜の葛城城は、静けさに包まれていた。
虫の声すら遠く、障子の向こうにはわずかな灯りが揺れるだけ。
政務も訓練も終えた時刻、城全体が息をひそめていた。
──明日、再び“言葉の戦”が始まる。
斎は、書架の奥の小部屋にいた。
政庁でもない、私室でもない。ごく限られた者しか知らぬ、ひとつの“思索の場”。
机には広げられた文書と、薄茶がひと椀。
顕真の書簡の写しが横に置かれている。
「……正義、か」
低く呟く。
「正義とは、誰のためにある?」
顕真は“築くもの”と言った。
ならば、私は──“奪ってでも示すもの”と、言うのか?
ふと、文を手に取った。
顕真の文には、確かに理があった。冷静で、的確で、そして温かさが滲んでいた。
(私の言葉は、冷たすぎるか?)
自嘲のような笑みを浮かべかけたその時──
「……ここに、いたのですね」
静かに障子が開かれた。
沙耶だった。
正装ではなく、外套を羽織ったままの姿。手には、もう一椀の茶。
「飲みすぎは、眠れなくなりますよ」
「眠るつもりは、ない」
斎が答えると、沙耶は小さくため息をつき、対面に座った。
しばしの沈黙の後、彼女は言った。
「白嶺殿とは、どういったご関係なのですか?」
斎は眉をひそめたわけでもなく、ただ視線を落とした。
「……彼女は、私に興味がある。それだけのことだ」
「それだけ、ではないように見えました。
斎様の言葉が、彼女に届くような、あの距離の近さは……」
沙耶の言葉は、責めるものではなかった。
だがそこに込められた“痛み”に、斎は気づいていた。
「感情で、私は動かない。白嶺がいかに踏み込んできても、私の歩む道は変わらぬ」
「──ならば」
沙耶が、わずかに声を震わせた。
「……その道を、誰かが止めようとしても、
やはり斎様は、振り返らないのですか?」
答えはなかった。
斎はただ、茶を口に運び、目を閉じた。
そのとき。
音もなく、部屋の戸口に影が立っていた。
雲居だった。
彼は何も言わず、ただ一礼すると、奥の壁際に腰を下ろした。
「……何か用か?」
斎の問いに、雲居は首を横に振る。
「ただ、ここにいるだけです」
それだけを言って、また沈黙に戻った。
斎は、ゆっくりと目を閉じた。
言葉の戦いは明日だ。
だが、この静かな夜に、己の言葉を見失えば、明日もまた敗れる。
“正義とは、築くものか。それとも──刺し貫くものか”
誰に問うこともなく、問いだけが、灯りの揺らぎと共に心を巡っていた。
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