第三十三話 その背を、もう追えぬのか
稲生 彰人は、ゆるやかな山道をひとり歩いていた。
風は冷たく、夏の終わりを告げるようだった。
足元には茶に染まった落ち葉がちらほらと積もり、背後にはもう誰の気配もない。
──葛城を、出てどれほど経っただろうか。
背に負った小さな荷だけが、今の自分を支えているような気がした。
剣も鎧も置いてきた。戻る場所も、もうない。
……それでよかったはずだった。
その時だった。
遠くから、馬の足音と、整った足取りの一団の気配が近づいてきた。
稲生は脇の岩陰に身を寄せる。習い性で、反射的に気配を隠したのだった。
──軍装ではない。
だが、ただの旅装とも違う。
金の鳳凰が、青の旗の中で翻るのが見えた。天義国の……使者だ。
行列は整然と進み、誰ひとりとして脇道に目を向けることはなかった。
だが、そのただならぬ緊張と静謐な威圧感は、稲生にとって、かつて幾度も感じた“戦”のそれだった。
(……あれが、斎様のもとへ)
言葉を交わすでもなく、一行は通り過ぎていく。
だが、通り過ぎた後の風の中に、斎の姿が浮かんだ。
背筋の伸びた、冷たい炎のようなあの男。
──あれほど近くにいたはずなのに。
──誰より信じていたのに。
稲生は、もう一度、進もうとした足を止めた。
目を閉じる。まぶたの裏に、あの背中が浮かぶ。
(……彼の覇道は、本当にもう、“戻れない”のか……?)
風が吹き抜け、木々がざわめいた。
だが答えはどこにもなく、ただ足元の道だけが、どこまでも続いていた。
稲生 彰人は、黙って前を向き、再び歩き出した。
その背中に、もうあの城の気配はなかった。
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