第三十話 影は、なお遠くより見て
神代院の夜は、いつもより静かだった。霧が晴れ、焚火の灯が赤く揺れる。
天幕の一角では、斎と白嶺が向かい合っていた。共闘を終えたばかりの両者の間に、緊張と微笑が交錯していた。
「……神の加護が消えた聖地ってのは、案外あっけないものね」
白嶺が酒を傾けながら呟く。陽に焼けた肌に潮風を纏い、どこか遠い海を思わせる目で斎を見ていた。
「この地に加護があったかは、私には分からん。だが、祭壇の灰に神は宿らぬと信じている」
斎の声は冷静だった。だが、その目には、微かに疲労と決意の色が滲んでいる。
「非情な策だったわね。貴方が“悪”に徹する覚悟を、少しだけ理解できた気がする」
「悪とて、誰かが担がねば世は治まらぬ。それが私の役目ならば、構わん」
白嶺はふっと笑った。その笑みには、侮りも憐れみもなく、ただ純粋な興味があった。
「……本当に面白い男。あんたを見ていると退屈しない」
その時、天幕の端がそっと開いた。
「殿、失礼を──」
現れたのは、真柴沙耶だった。斎の影として働く彼女は、白嶺を一瞥すると、わずかに眉を寄せた。
「……白嶺殿、お控えを。殿はお疲れです」
「ふぅん? 影ってのは、主を守るだけじゃなく、口うるさいものなのね」
白嶺は笑いながらも、沙耶の視線を真正面から受け止めた。互いに言葉を選びながらも、火花のような空気がそこにあった。
「殿のお心は……決して、弄ぶものではありません」
その言葉に、斎はひとつ咳払いし、茶を口にした。
「……影も、海も騒がしい。だが、それもまた、この覇道の一興だな」
帳が閉じられたその時。
──遠く、山の稜線から、それを見つめる一人の影があった。稲生 彰人。かつての副将、今は離れた者。
風に乱れる髪を押さえ、彼は遠くの幕舎を見つめていた。
(……お前の進む先が、どこへ辿り着くのか)
(私には、もう止める力も、言葉もない)
それでも、彼はそこにいた。かつて共に歩いた男の姿を、闇の中に追いながら。
焚火の光が遠く滲み、霧がまた静かに降りてくる。影はなお、遠くよりその背を見つめ続けていた。
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