第二十二話 残された影
夜の帳が野営地に降り、幕舎の灯が静かに揺れている。
真柴沙耶は湯を沸かしながら、ふと一つ、名を思い出す。
──稲生 彰人
つい先日まで、あの背は常に斎の隣にあった。
今はいない。彼が去ったという事実は、思ったよりも静かに沁みる。
「……まったく」
湯が沸いた鉄瓶の口に布をあて、二つの椀に茶を注ぐ。
誰にも気づかれぬように、斎の幕舎へ向かうその足音は影そのものだった。
*
「……殿、差し入れです」
帳をくぐると、斎は軍議図の前に一人、膝を組んでいた。
地図の上には、乱れた筆跡で書かれた指示書と木駒が並んでいる。
「沙耶か。入れ」
言葉とは裏腹に、その声はやや掠れていた。
沙耶は椀を一つ、斎の前に置くと、自らも端に腰を下ろす。
「……眠っていないのですね」
「今は考えることが多すぎる。眠っている場合ではない」
茶をひと口啜る斎。
湯気の向こう、その横顔はどこか疲れて見えた。
「雲居が提出した補給案、すでに確認しました?」
「見た。数字の上では申し分ない」
「けれど“上”だけでは動かぬ人もいます。稲生様のように」
その名に、斎は微かに目を細めた。
だが、返す言葉はなかった。沈黙が落ちた。斎は手元の筆を持ち上げる。
また、読めぬほどに崩れた字を書きつけると、無造作に書簡を封じる。
「……お前には、影としていてもらう」
「ええ、望むところです。ですが」
沙耶は、一度、茶を飲んでから言った。
「影にも、限界があります。……背を見失えば、もうついていけません」
斎の筆が止まった。
「影が、俺を見失うとはな」
「……稲生様が離れた理由は“見えなくなった”からですよ。殿の心が」
ふっと、斎は笑う。
「心など、元より見せるつもりはなかった。政も策も、感情で動かすものではない」
「それでも……」
沙耶は、言葉を飲み込んだ。なぜだろう。
彼の背中が、どこか遠くに感じた。
その手は冷たいのに、まるで火を宿しているようだった。
自分も、稲生も、もうそこには触れられないのかもしれない──
*
夜空に、白い息が溶けていく。沙耶は帳の外に出て、ふと振り返った。
あの背中が、このまま闇に溶けてしまわぬように。
もう少しだけ、影でありたいと思った。
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