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覇道の果てに、王座は泣いた  作者: 望蒼
序章 ──群雲の時代
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第二十二話 残された影

夜の帳が野営地に降り、幕舎の灯が静かに揺れている。

真柴沙耶(ましばさや)は湯を沸かしながら、ふと一つ、名を思い出す。


──稲生 彰人(いのうあき)


つい先日まで、あの背は常に斎の隣にあった。

今はいない。彼が去ったという事実は、思ったよりも静かに沁みる。


「……まったく」


湯が沸いた鉄瓶の口に布をあて、二つの椀に茶を注ぐ。

誰にも気づかれぬように、斎の幕舎へ向かうその足音は影そのものだった。


「……殿、差し入れです」


帳をくぐると、斎は軍議図の前に一人、膝を組んでいた。

地図の上には、乱れた筆跡で書かれた指示書と木駒が並んでいる。


「沙耶か。入れ」


言葉とは裏腹に、その声はやや掠れていた。

沙耶は椀を一つ、斎の前に置くと、自らも端に腰を下ろす。


「……眠っていないのですね」


「今は考えることが多すぎる。眠っている場合ではない」


茶をひと口啜る斎。

湯気の向こう、その横顔はどこか疲れて見えた。


「雲居が提出した補給案、すでに確認しました?」


「見た。数字の上では申し分ない」


「けれど“上”だけでは動かぬ人もいます。稲生様のように」


その名に、斎は微かに目を細めた。

だが、返す言葉はなかった。沈黙が落ちた。斎は手元の筆を持ち上げる。


また、読めぬほどに崩れた字を書きつけると、無造作に書簡を封じる。


「……お前には、影としていてもらう」


「ええ、望むところです。ですが」


沙耶は、一度、茶を飲んでから言った。


「影にも、限界があります。……背を見失えば、もうついていけません」


斎の筆が止まった。


「影が、俺を見失うとはな」


「……稲生様が離れた理由は“見えなくなった”からですよ。殿の心が」


ふっと、斎は笑う。


「心など、元より見せるつもりはなかった。政も策も、感情で動かすものではない」


「それでも……」


沙耶は、言葉を飲み込んだ。なぜだろう。

彼の背中が、どこか遠くに感じた。


その手は冷たいのに、まるで火を宿しているようだった。

自分も、稲生も、もうそこには触れられないのかもしれない──


夜空に、白い息が溶けていく。沙耶は帳の外に出て、ふと振り返った。

あの背中が、このまま闇に溶けてしまわぬように。


もう少しだけ、影でありたいと思った。

◆――お読みいただき、ありがとうございます。


登場人物たちの言葉や生き様に、少しでも感じるものがあれば嬉しいです。

ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。


次回も、どうぞよろしくお願いします。

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