第二十一話 背にする者
夜の帳が落ち、葛城軍の野営地には静かな風が吹いていた。
──幕舎の裏手、影のように佇む二人の姿があった。
「……顔色、悪いわね」
真柴沙耶が声をかけた。
月光を受けた彼女の瞳は、稲生 彰人の顔を射抜くように見つめている。
「そう見えるか」
「ええ。最近のあなた、何か……怖いくらいに静か」
稲生は言葉を返さず、ただ夜空を仰いだ。
「殿のそばにいたのは、稲生様だった。
けれど最近は……、あの子ばかりね。雲居 悠仁」
その名に、稲生の眉がわずかに動いた。
「彼の策は冴えてる。……だが、理屈だけじゃ、人は動かん」
「それを言うなら、稲生様も理屈だけで動ける人じゃなかった。だからこそ、斎は──」
「今の殿は……もう、俺の知っていた殿じゃないのかもしれん」
その一言に、沙耶は何かを察したように視線を伏せた。
※
軍議の場。地図を囲んで、沙耶、雲居、稲生が対峙する形となっていた。
「……ならば、敵の主力はこの峡谷を抜ける道を通るはず。その動線を……」
雲居 悠仁が冷静に進言する。
「おい、貴様は机の上で策を描いてるだけだろう。
あそこにどれだけの兵が要るか、わかって言ってるのか!」
稲生が声を荒げた。沙耶がすぐさま間に入る。
「落ち着いて、稲生様。悠仁の言っていることも一理あるわ」
「──一理、で済むなら、あの戦で死んだ者たちは何だった。
あの時も策に従った結果、阿曽原は……」
沈黙。沙耶の瞳が揺れる。雲居は黙して地図を見つめたまま、言った。
「私が間違っているなら、訂正いただいて構いません。
ただ……殿がこの策を了承されると、私は信じています」
「……」
稲生は舌打ちし、幕を割るようにその場を立ち去った。
※
斎の幕舎。稲生は静かに入る。
「……殿。話がございます」
「……ああ」
斎は筆を止めた。
見慣れたその文字は、やはり稲生以外には読めないほどに乱れている。
「俺は……殿のために剣を振ってきた。
しさなんて捨てて、ただ、あなたの信念についてきた」
「それが、重いというのか」
「重いんじゃない。……もう、届かなくなったんです。
殿の目には、もう俺の姿が映っていない」
斎はゆっくりと立ち上がった。
「……止めはせん。だが、背を向けるお前のことを、俺は忘れぬ」
稲生は唇を噛み、深く一礼する。
「斎様……どうか、民を忘れぬ人であってください」
背を向け、幕舎を去る稲生の背を、沙耶が影から見つめていた。
※
夜更け。斎のもとに沙耶が入る。
「……行きました」
「そうか」
「……もう、誰も残らなくなってしまうんじゃないか、そんな気がしたの」
「残らぬとも。だが、俺は進まねばならぬ。それが──覇道だ」
沙耶は火鉢のそばに小さな湯飲みを置き、斎に茶を差し出した。
「……お茶、どうぞ。たまには、少しは落ち着いて」
斎はわずかに目を細め、湯飲みを受け取る。指先はかすかに冷えていた。
一口、啜る。その表情に変化はないが、微かにその肩の力が抜けたように見えた。
「……なら、私はまだ、あなたの“影”でいるわ」
斎は火鉢の火を見つめながら、静かに呟いた。
「影であれ、光であれ、共に歩む者を……俺は、もう、失いたくなかったのだ」
◆――お読みいただき、ありがとうございます。
登場人物たちの言葉や生き様に、少しでも感じるものがあれば嬉しいです。
ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。
次回も、どうぞよろしくお願いします。




