第二十話 裂ける信
夜の帳が、野営地に静かに降りた。
斎の幕舎には、火鉢の赤が淡く灯り、蝋燭の火がかすかに揺れていた。
雲居 悠仁は軍図を睨みながら、静かに口を開いた。
「敵の補給線は一本、峠を越えるここです。
途中の村は……規模は小さいですが、糧秣の保管地となっています」
斎は頷いた。
「そこを焼けば、後詰の動きは止まるか?」
「……止まります。ですが、民もいます」
雲居は、それ以上を語らず言葉を引いた。
そのやりとりを、稲生 彰人いのうあきとは黙って見つめていた。
(いつからだ……俺の言葉より、あの青年の声に耳を傾けるようになったのは)
斎と雲居。
二人の間に流れる無言の了解。
“戦を読む者”同士の呼吸。
そこに割り込めない自分の居場所が、薄れていくのを、稲生は確かに感じていた。
「……村が、あります」
絞り出すように、稲生が言った。
雲居がわずかに視線を向ける。
侮りはなかったが、明確な“冷静”があった。
「軍事的には……」
「軍事ではない。民だ。生きる者が、そこにいる」
声が高ぶった。
幕舎に、一瞬の静寂が走る。斎が筆を止め、稲生を見た。
「我らが遅れれば、敵は次なる地へ進む。彼らが刃を向ける先にも、民がいる。
ここを断てば、それを防げる」
「犠牲で、秩序を得ると?」
稲生の拳が震えていた。
「……昔のあなたは、そんなやり方はしなかったはずだ」
その言葉に、雲居が静かに斎を見た。
斎は少しだけ視線を落とす。
「昔の俺は、まだ理想を語れた。だが、今は語るより、守ることを選ぶ」
稲生の視線が斎を刺すように貫いた。
「殿、それでも……それでも、これは……」
言いかけて、言葉が途切れた。
そのとき、雲居が一歩前に出た。
「策の実行、私が指揮いたします。
村の周囲に残留兵が潜んでいる可能性も高い。掃討と攪乱、同時に行います」
稲生は、その“当然のような申し出”に、反応が遅れた。
斎がわずかに目を伏せ、頷いた。
「頼む。雲居」
(……そうか。もう、俺が“頼られる番”ではないのか)
その夜、稲生は一人、野営の焚き火の前にいた。
薪がはぜる音だけが、沈黙を照らす。炎のゆらめきに、彼の表情は陰ったままだった。
(……殿は、変わったのか。それとも、俺が追いつけなくなっただけなのか)
ふと、かつて共に剣を振るい、共に笑った日のことがよみがえる。
あの頃の斎は、戦の後に必ず酒を少し口にした。
それは勝利を祝してではなく、失った命への弔いだった。
(今は……筆を走らせることで、それを祈っているのか)
あの冷たく見える背中には、誰にも言えぬ重さが乗っている。
(それでも……俺には、あの策は受け容れがたい)
「……迷っていては、いずれ取り残されるぞ」
その声は、焚き火の向こうから聞こえた。
雲居 悠仁が、手に巻物を抱え、炎の向こうに佇んでいた。
「軍は前に進みます。殿も、です。あなたが立ち止まれば、それだけが“空白”になります」
稲生は立ち上がった。
「……貴様には、理屈しかないのか」
「それは、策を読む者の業です。私は、命令を理で通したくてここにいる」
ふたりの間に、火花のような火の粉が散った。
だが、稲生は拳をほどき、静かに言った。
「……今はまだ、踏みとどまる。
殿を信じた俺が、最後まで信じ切れなければ、それは──ただの裏切りだ」
雲居は何も言わず、軽く頭を下げて去っていった。
その背を見送りながら、稲生は再び焚き火の前に腰を下ろす。
(……斎よ。お前は今、何を抱えている)
夜が更けていく。
揺れる火が、ふたりの男の交錯する信と疑念を、照らし続けていた。
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