第十八話 神代院攻略 霧中の戦略 第三部
霧が、辺りを覆っていた。
神代院。信仰の都。
鐘の音は今朝、最後の一打を打ち終え、沈黙している。
霧はまるで、何かを隠すように分厚く、音すら呑み込んでいた。
──勝利から数刻後。
戦場にはなお、血と祈りの名残が漂っていた。
倒れた兵たちの間を歩きながら、稲生 彰人は言葉少なに、仲間の亡骸に手を合わせていた。
「……殿は、これを読んでいたのか」
呟いたその声には、怒りとも、戸惑いともつかぬ感情が滲んでいた。
傍らの若い兵が、唇を噛みしめながら言った。
「彰人様……本当に、あの策しかなかったのですか。こんなに、多くの者が……」
稲生は、その言葉を正面から受け止めた。
視線を外さず、ただ静かに、しかし力を込めて返す。
「……策とは、犠牲を選ぶことでもある。
殿はその全てを背負い、選んだ。俺も、それを受けた」
兵は目を伏せた。だがその表情は、納得には程遠い。
稲生は、空を仰いだ。雲間から微かに月が覗いている。
(……それでも、俺がこの道を進むのは)
心の奥で、問い続ける自分がいた。斎の非道なまでの策。
それに自分が加担しているという現実。
──だが、あの夜の言葉を、稲生は忘れてはいなかった。
『ここを突破されれば、策全体が崩れる。だが、だからこそ……任せられるのはお前しかいない』
『お前の剣と、信念を……俺は信じている。ここを、頼む』
それは、命令ではなかった。ただの“託し”だった。
(ならば俺は……その信に、応えねばならん)
そう言い聞かせるように、稲生は拳を握りしめた。
※ ※ ※
夜。
神代院の外れに設けられた葛城軍の幕舎には、深く冷たい静けさが漂っていた。
火鉢の火が、かすかに赤く灯っている。その前に、葛城斎と稲生彰人がいた。
斎は小さな文机に向かい、筆を走らせていた。
次なる布陣と進軍の草案
──その文書の紙面は、相変わらず、誰の目にも読み取りにくい歪な文字で満たされていた。
筆の先がわずかに震えている。
それに気づきながらも、斎は書き続けた。
(……策は成功した。だが、犠牲は消えぬ。声なき者の嘆きは、きっとこの先も俺を追う)
(それでも──進む)
心の底に沈む何かを押し殺すように、斎は最後の一筆を記し、筆を置いた。
「……殿」
稲生が、口を開いた。
「……敵兵の遺体、埋葬の許可を。信仰がどうあれ、死してなお放置するのは、武士として……」
斎は目を閉じ、頷いた。
「任せる」
短い言葉だったが、その声には確かに感情の波があった。
「……犠牲は最小で済んだ。策は、成功だ」
自らに言い聞かせるように、斎が呟く。
稲生は黙ったまま、斎の横顔を見つめていた。
いつもの冷徹さ。だが、その瞳の奥には、沈黙の叫びがあった。
「……あの祈りの鐘、今も耳に残っています」
稲生の言葉に、斎はわずかに目を細めた。
「耳を塞いでも、胸の奥で鳴っている。
……だが、聞こえるのは鐘か、それとも……己の弱さか」
火鉢の火が、ぱちりと弾けた。
「殿は……お迷いですか」
稲生の問いに、斎は答えなかった。
ただ、火の揺らぎを見つめながら、ひとつ、深く息を吐いた。
「……だとしても、俺が歩むしかない。この手で掴み取るしかない。太平も、秩序も……」
その声に、稲生は何も言えなかった。
葛藤は、斎にも、稲生にも確かにあった。
だがその夜、ふたりの間にあったのは
──かつてのような、わずかな“信”だった。
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