第十二話 稲生の迷い
夜明け前の空は重く、雲は切れず、風も凍てついていた。葛城本陣の一隅。焚火の前で、稲生 彰人は静かに佇んでいた。
肩に霜を乗せたまま、彼はただ、幕舎の一つを見つめていた。その中にいるはずの男──葛城斎。
(……変わられたわけではない。ただ、あの方は……)
かつては理想を語り合い、剣を交わした日々があった。だが、阿曽原の死が、それを静かに断ち切り始めている。
「それでも、私は……殿を、信じていたいのです」
彼の言葉は風に溶け、誰にも届かぬ。焚火の火が弾けた。その音に、稲生は僅かに目を伏せた。
少し離れたところ。物陰に立つ女の影が、彼を見つめていた。真柴沙耶、気配を悟らせずに立つ、影の者。
(……あの人は、まだ迷ってる。優しさを残している)
沙耶は、稲生の揺れる背をじっと見つめながら思った。自分もまた、斎の“非情”を見て、胸の奥が軋んだことがある。だが、その非情の奥にある“涙を飲み込む覚悟”も、誰よりも知っている。
──だからこそ、あの男を孤独にはさせない。
ふいに、沙耶は視線を空へと移す。
※ ※ ※
「葛城が動いたか。例の、策士殿が──」
外報の若官が報告を終えると、海図を見下ろしていた女が口元を吊り上げた。
「そろそろ潮時、ということね。なら、私たちも“波”を立てましょう」
白嶺海国 提督・白嶺。艦隊編成に目を通す手は、少しも震えない。
※ ※ ※
「神は告げておられる“東の影に、血の煙あり”と」
巫女の囁きを受けて、神官たちが畏れの声を漏らす。高座に佇む教主・天瀬は、ただ静かに目を閉じていた。
「我らが為すべきは、ただ粛清。……悪を討つのみだ」
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