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第十一話 沙耶記──影の記憶
戦が終わっても、風は止まず、血の匂いが消えることはなかった。沙耶は、誰もいない廊下の奥から、斎と稲生の背を見つめていた。
阿曽原一成の戦死報が届いてから、斎は一言も発していない。稲生もまた、その傍らで黙していた。
斎の手は、わずかに震えていた。けれど、彼は顔を上げることなく、ただ地図を見つめ続けている。
その目にあるのは、勝利か、それとも……。
(殿は、泣けない人だ)
そう思った沙耶は、ふと唇を噛む。
あの男は、自分の策によって誰かが死ぬことを知っている。それでも、涙を見せることはできない。
いや──許されていないのだ。
沙耶は、そっと幕を下ろし、影へと姿を消す。暗がりの中、ひとり膝を抱えてうずくまるように座り込む。
(私たちは、どこへ向かっているのだろう)
諜報頭目として、彼女は誰よりも情報を知り、誰よりも冷静であるべきだった。けれど、この夜だけは、ひとりの女として、涙をこらえた。
その耳にはまだ、阿曽原の叫びが残っていた。
「わしらが、殿の楔ぞ――!」
その言葉が、どこか胸の奥で静かに疼いていた。