2 鰯雲
羽化したばかりの秋茜が空を飛び交う季節になると、どこか物悲しくなる。田圃の稲の上にのっそりと止まっていたかと思うと、大勢の仲間たちとすぐさま空高く昇り、みんなで生まれ育った山の方へと帰っていくのがよく見えるからかもしれない。
(おいらも、どこか、帰れる場所があったら良いのになあ)
米粒のような花の咲いた稲の間の野草たちを引っこ抜いては畦に捨て、引っこ抜いては畦に捨てを繰り返していた葦尾は、自分が秋茜になったつもりで空を飛び、みんなと山へ帰っていく想像を膨らませていった。まるで自分が風になったかのように舞い上がり、ぴんと張られた麻糸を張り巡らすみたいに稲の上を飛び回り、暮れていく日を遮っている遠くの山々に帰っていく。それを考えてみるだけでも葦尾はどこか救われる心地すらしていた。
「おい、口無し。はやく帰れよ、見てると苛々するんだよ」
(……)
「おい! 帰れって言ってんのが聞こえねえのか? 耳無しにもなったかあ?」
あっはっは! と笑い合う年若い百姓の息子たちの集団の方を見ようともせず、葦尾は泥のついた手を振り払いながら自分の作業を続けた。
(……もし草が残っていたら、父様から何を言われるかわからない。それがわかっているから、あいつらもからかってくるんだ。気にしないのがいい)
揶揄を気に留めようとせず黙々と野草をとっていく葦尾の姿が一層気に食わなくなった男子たちは、緑の稲穂の揺れるなかをずんずんと進み葦尾の方へとやってきた。その様子が視界の端に見えた葦尾は、唇を引き結んで下を向いた。しかし、先頭を切ってきた年のわりに体躯の大きな男子にぐいと顎を掴まれて、葦尾はいやでもその泥仕事で煤けた顔を見る羽目になった。
「お前の面を見てるとよう、口無しの癖にちびちびやってんのが気に食わねえんだよ」
「……」
「おい、なんか言ってみろよ。なあ、口無し!」
「……っ!」
体の大きさで比べれば百姓の息子たちの背の丈半分と言って良いほど小さな葦尾が、自身に勝手につけられた蔑称を何度も言われて腹に据えかね、そこだけは父親譲りの切れ上がったその瞳を彼の顎を掴んだ少年に向けた。少年は瞬間、こいつはそんな眼をするのかと怯んだが、身長差だけでなく体力も大きく差のある葦尾にそんな感情を抱かせられたことに腹が立ち、
「口無しは口無しだ、文句があるならなんか言ってみやがれ!」
と口走った。その語調の強い言葉に背後の少年たちも強気になって囃し立てる。目の前に立ちはだかる少年たち全員に声をぶつけてやりたいと葦尾は思い、告げようとした。
「あ、あ、あ、お、おー、お、お、え!」
「ああ? なんだ、聞こえねえなあ」
葦尾が喋り出したらこちらのものだと、畦道にいる少年たちも田圃のなかにいる少年も互いを見交わしながら、ほくそ笑むような表情を浮かべ始めた。そのためか、田圃にいた少年が、彼らの背後にゆっくりと近づいている存在に気づいて、次第に焦りの表情に変わっていったのに少年たちは気づかなかった。
「お前ら、逃げろ!」
そう少年が呼びかけたのも束の間、畦道にいた少年たちの背後から近づいた櫛尾が静かに持ち運び、一気呵成に彼らの頭にぶちまけた「それ」を、彼らは少しも避けられないまま直に食らった。べとべととした気持ちの悪い質感が少年たちの頭を襲い、途端に蠅が散るようにわあわあ言いながら頭にかかったそれを彼らが取ろうとすると、思わず気を失ってしまいそうなほどの臭いが鼻をついた。
「うわあ、臭え!」
「なんてことしやがる!」
ふん、と大きな鼻息を一つすると、櫛尾はその細い腕に力を入れて持ってきた肥溜めを田に撒くための大きめの柄杓を、「それ」がたっぷりと詰め込まれた桶に再び突っ込みながら、
「あんたたちがしたことをしただけよ、まったく懲りない連中だわ」
と告げつつ、次なる砲撃のための体制を整えていた。彼女がまたこちらに糞尿を振り撒きそうなことがわかって、少年たちはだらしなく喚きながら今度は蟻の子を散らすように逃げていってしまった。田圃に一人残された大将は「お、おい!」と情けない声を上げながら、次の標的が自分であることを知って頬に冷や汗をかいている。
「喜一、あんたもこれを喰らいたくないなら、さっさと父様に叱られてきなさい。あんたが野良仕事から抜け出してきたってこと、こっちはもう知ってんのよ」
うぐぐ、といまだ顎を掴まれたままの葦尾にも聞こえそうなほどその喉元からくぐもった音を響かせたかと思うと、大きな舌打ちを一つして喜一は葦尾の顎を掴んでいた手を離し、苛立ちと悔しさ紛れに稲を踏みつけながら田圃を畦道と平行にずかずかと歩き出した。そのことにも櫛尾は腹を立てて何かを言おうとしたが、まずは弟の安否だと思い直し、風に揺れる緑の稲の波の中にその姿すら消えてしまいそうな弟の方へと一直線に向かった。
葦尾は姉の近づいてくる姿に気づくに連れて、ほっとする心持ちと一緒に、何故か黒々とした想いに取り巻かれてしまって、その気持ちの重さからかすこし下を向きながら、自身の手を何かから守るようにさすっていた。だからだろうか、その手に触れられるよう、自分と同じ目線になるようやや中腰になってくれた櫛尾に、
「ねえちゃん、ありがとう」と、小さな声で応えるのが精一杯だった。
「ううん、ありがとうなんて言わなくていいの。あいつら、自分が食べさせられた苦い汁を糧にできないから、辺り構わず吐きだしているだけなのよ」
だから、あんたが泣く必要なんてないのと姉に諭されても、弟は何故か次から次にこぼれ落ちてくるそれを留めることも止めることもできないようだった。
(くやしい、くやしい。なんでおいらって、いっつもこうなんだろう)
同じ年頃の遊び相手にも、いくらか年嵩の少年たちにも、口でも体でも喧嘩で勝てた試しがない。どころか、そもそもそんなふうに相手をのしてやろうとか、負かしてやろうとか、考えたこともない葦尾を、だからこそであろうが、少年たちはこぞって喧嘩をふっかけ、嘲ってくるのだった。葦尾は葦尾で、そんな少年たちに勝ちたいとは思わないけれど、馬鹿にされるのと負けるのとは違うということだけはわかり、せめて普通に遊びたいと思っていた。
吃りというだけでそれすら許されないのかという考えが結ばれた途端、葦尾の心のなかで渦を巻く感情の流れが、堰き止められずに嗚咽になってきてしまった。
一帯に響きかねない弟の泣き声をみかねて、櫛尾は無言で背中を向け、そのまますっとしゃがみ込んだ。数えて二つの頃から、畦道に落ちたり、野犬に驚かされたり、夜分に山奥で響く狼の遠吠えにすくみ上がって動けなくなってしまったりしたとき、いつも櫛尾はそうして、葦尾をおぶってきたのだった。
このときも葦尾は、久方ぶりに姉におぶってもらうことの恥ずかしさも頭に浮かばない程にくやしい、くやしいと心のなかで念じつつ、小さな腕を姉の肩にまっすぐ乗せた。すると、いつもの要領だと櫛尾は背負子の紐を縛るかのようにその腕を自分の胸の前で重ね、そのまま腰を支点にぐいと弟を背負い、背中に重さを感じた瞬間にぱっと手を離し、浮いた葦尾の足を脇に挟んで、赤赤と色づいた鰯雲の下を、二人の暮らす葺きの家へと歩んでいくのだった。