序
夕闇のなかに陰るものがある。
それが人の形を取っていることがわかって、幼い葦尾は肝を冷やした。
父の遣いで花見の宴のための酒甕を家の蔵から取り出し、参道に迫り出した桜の枝々の下を通り抜けて八幡様のところへ持ってきたはずが、なぜだか見たこともない霧深い池のほとりに立っている自分自身に気づいただけでも奇妙だというのに、さらにその目の前の池の中心部、赤々と暮れ行く空をぼかしたようにきらめく水面にぽっかりと穴が空いたように、人型の陰がそこに浮かんでいるのを見たとなれば、普段涼しい顔で普請をしている男衆ですら冷や汗をかくことだろう。まして生来臆病な葦尾は、可哀想なことに思わず素っ頓狂な高い声をヒイと上げてしまった。
彼はすぐにここから離れたいと思ったが、その陰がじっとこちらを見つめているような気がして、身体の節々に虫を留める鍼を打たれたかのようにその視線からわが身を逸らすことができず、先ほどから口をぱくぱくとさせることしかできないという有様だった。
ひしと抱えた甕も遣いを果たす為に離さないでいるというよりも何かに縋り付きたい一心で離さないでいるというような格好で、そんな葦尾の心を見定めるかのように人の姿をした陰るものはじっとりと湿度のある眼で、三間ほど離れた岸辺にいる幼い人を見つめている。然してその姿の不気味さとは相反する、鈴の音が秋空に響き渡るかのような澄んだ声色で葦尾にこう告げた。
「なに、怖がるな。今そこにゆくから、待っていておくれな」
すると陰は、多くの影がそうであるように音もなく、霧のけぶる池の中心から葦尾の立っているあたりまでやってきて、手のように見える伸びた陰をすいと差し出した。怖がるなと言われても変わらずに動けないままの葦尾は、陰が近寄ってくるだけで全身の体を強張らせそのまま卒倒しそうであったが、酒甕にしがみついているその幼い手の甲の上に、見たことも無いような輝きがあるのに気づいて驚いた。
しかもその輝きは新しい鍬や鋤が日の光を反射する鉄の輝きではなくて、その内側からきらきらという声が聞こえてきそうなほどほとばしるような輝きをしていたので、これはまるで小さなお星様のようだと葦尾は思い、勢い惹きつけられた。
「ぬしに頼みがあるのだ。どうか十五になる時まで、これを預かっていてほしい。きっと一人の尼と二人の武士が、ぬしの元を訪ねてくるはずだ。その者たちと出会うとき、わしがこれをぬしに預けた意味がわかるだろう」
葦尾はその陰の声音が、見た目のおどろおどろしさとは裏腹にとても優しいのだということに、次第次第に気づいていった。まるで母親が子どもに諭すように告げるその仕草から、もしかしたらこの陰は葦尾を産んですぐに亡くなってしまった母の霊なのかもしれないと、自分の身の上に寄せた空想を広げてしまうほど心を許している自分自身にもすこし驚きながら、葦尾は促されるままその輝く星のようなものを手のひらに乗せた。すると途端に輝きはすっと失せて、よく遊びにいく川縁に転がっているような、ただの平たい石ころになってしまった。あれだけの輝きを放っていたのに、何か自分がとんでもない間違いをしてしまったのかと思って慌てていると、陰はころころと笑いながら応えた。
「案じずとも良い。その時が来るまでは、力を抑えていなくてはならないのだ。そのためにぬしを驚かせてしまうことだろうが、すこし、我慢してくれな」
輝きを抑えた平たい石が葦尾の手のひらの上で垂直に立ったかと思うと、まるで沼に投げた石ころが自らの重みでゆっくりと沈んでいくように、それは葦尾の手のひらに痛みもなんの感覚も生み出さないまま埋まっていき、最後にはすっかり身体の中にひゅんと入りきってしまった。葦尾は声にならない恐れと驚きとに頭の中を占められたままその様子を見つめていたので、自分の意識がそのままぷっつりと途切れてしまうかと思った。
「おお、よく受け入れてくれた。こやつも安心して眠りにつくことができよう」
陰はそう言うと、立ち消え始めたお線香の煙のように薄くなり、やがて完全に消えてしまった。
葦尾が意識を取り戻したのは、姉の櫛尾に揺り起こされたときだった。長い髪を右肩の脇で結んだ年の頃十二、三の櫛尾は、二歳しか離れていないというのにまだ幼い弟の頼りなさに呆れつつ優しく諭した。
「あんた、なんだって蔵の前で寝ているの。父様はとてもお怒りよ」
そう聞かされて葦尾は、自分が沼の入り口どころか自分の生家である葺屋づくりの家の隣の、自分が酒甕を持って出てきたはずの土蔵の入り口の階段に寄りかかるように寝ていたらしいことに気づいた。櫛尾にいま起きたことを伝えようと思ったのだが、いつものように、
「あ、あ、あ、あの、あの、ね」
となかなか声にならぬ声しか上げられず、ようやく諦めてきたばかりの自分の生来の吃りに一層やきもきとする。櫛尾は葦尾が指を一つところに差しながら普段よりも熱心に何かを伝えようとする様子に、いつもと違う何かがあったろうことは察しつつ、それでも早く父の機嫌を直さねば葦尾もまた叱られると思い腕をぐいと引っ張って夜の参道の方へと連れやった。姉に引かれた葦尾の掌に、月明かりでも星明かりでもなく、蛍の灯りでもない光がその内側で点っていることに気づくものは、当の葦尾も含めて誰もいなかった。