抱かれていた男
日曜日。
俺はあくび混じりに大学の端にある部室へ向かった。
俺は涼哉と一緒に、テニス部に所属している。
サークルというには少々本気が過ぎるこの部活は、週に四回通常練習があり、その他の日も幹部達が交代で『自主練』に明け暮れているのだ。
俺にとっては、いくつか掛け持ちしている部活の一つだったのだが、周りの空気に呑まれていつの間にやらどっぷり浸かる羽目になった。
そもそも、最初に熱烈な勧誘を受けたのは涼哉だけで、俺は隣にいただけだった。
でも涼哉がテニス部のガチっぷりに引いてしまい、ちっともやる気にならず、俺が横から「えー、もったいねぇの。せっかくだからやればいいじゃん」と言った結果。
「ゆずが入るなら俺も入る」
と小学生時代を思わせるような可愛い台詞をポツリと吐かれて、絆されてしまった俺がうっかり「……別にイイけど」とか言ってしまったことが原因だ。
まぁ、涼哉が一緒ならいいか、と軽い気持ちで入ったら随分と本格的で、最初の頃は息も絶え絶えだった。
けれどなんだかんだ、そこまで強くはなれなかった代わりに事務仕事や渉外なんかではわりと有能な俺は、部内でそこそこのポジションを築くに至った。
そのうちの何割かは、涼哉のトラブルの後始末だったことは、言うまでもない。
そして三年生で一応引退したものの、いつの間にやらご意見番じみたポジションに収まっており、時折困り果てた後輩に泣きつかれて部室に顔を出すのだ。
我ながら、わりといい先輩だと思う。
俺は昔から世話焼きなのだ。
「よぉ、元気にしてるかー?」
「あっ、譲先輩!」
驚いたように目を見開いて、後輩たちはわっと俺の周りに集まった。
「うわぁ、お久しぶりです!」
「先輩こそ元気ですか?」
「めちゃくちゃ久しぶりじゃないですかぁ」
「え、お一人ですか?」
「お一人ですよね?」
「ざんねんー」
「トラブルはもうごめんなのでっ」
我先にと声をかけてくる、自分より背の高かったりする生意気な男子達。
そして久々に現れた俺の背後をわくわくと、もしくは嫌そうな顔で気にする女子達。
俺は苦笑しながら、わざと鬱陶しそうに片手で彼らを追い払う真似をした。
「うるさいっつうの、一人ずつ話せ。俺は聖徳太子じゃねぇ」
その仕草で今日の俺は機嫌が良いと分かったのだろう。
後輩たちは、パッと輝く笑顔を浮かべ、また全員でがやがやと話し始めた。
相談、愚痴、惚気、泣き言、噂話、……エトセトラ。
「あーもー、あいかわらずお前ら、うるせぇええ。今日はもう帰る!」
「だめですよ!来たばっかりじゃないですか」
「順番に話してるからいいじゃないすか!」
「たまにしか来てくれないんですもん、聞いてくださいよぉー」
耳を押さえて「聞かないぞ!」とアピールしても、構わず勝手に話し続ける後輩たちに、俺も途中から笑い出す。
「ほんっと馬鹿ばっかりだなぁ!あはははっ、……あれ?」
楽しく賑やかな集まりの外。
部屋の隅に、世界から仲間外れにされたような顔で、一人ぽつんと立っている奴がいた。
「あれ?大西、お前、どした?」
まだ高校生の面影の残る、小柄な二年生の少年だ。
柔らかな面差しで、すらりと伸びた手足と、くりくりとした目が印象的だった。
俺に声をかけられて、びくりとした彼は、困ったように顔を上げ、そして。
「……あ」
俺と目が合った瞬間、じわりと瞳に涙を浮かべた。
「え?ちょ、ホントにどうしたよ!?」
慌てて周囲の後輩たちを掻き分けて大西の傍に近寄れば、大西は座り込んで膝に顔を伏せてしまった。
「おいおい、なにが起きたぁ!?」
隣に腰を下ろして背を撫でながら、困り切って後ろを振り仰げば、後輩たちも困った顔で肩をすくめている。
「あー、大西、最近落ち込んでんすよ」
「なんか、カノジョと別れちゃったみたいで」
「つーか、捨てられたみたいで」
「迷惑かけてすんません。おい、大西、譲先輩に心配かけんなって」
困ったような顔で、わざと無遠慮な動作で大西の肩を叩くのは、大西と同級生の佐々木だった。
「っ、ごめん、なさい」
「大西……」
しゃくりあげながら呟く大西は、まだ高校生の面影のある子供っぽい声で、俺は可哀想になった。
「お前なぁ、あと少しなんだから、頑張れよ」
「え?」
上方から降ってきた佐々木の言葉に微かな違和感を感じて、俺は大西の頭を撫でる動作を止めた。
「いくらもうすぐ、やめるからってさ」
「辞め、んの?」
思わず茫然と呟けば、大西は大きく背中を震わせた。
「っく、はい、もう、この部活にいる、意味が、ないから」
まるで、闇の底で独りぼっちのような声。
俺は、意味もなく胸が締め付けられ、息が苦しくなった。
大西は帰省には飛行機が必須になるような遠い県から単身大学入学のために上京してきた。
中高は、広々とした田舎で、家族と趣味としてテニスをしていたらしい。
けれど新歓行事の一つの模擬試合を見て、勝負としてのテニスに惹かれ、そして涼哉のプレーに憧れてこのテニス部に入って来た、と言ってくれた。
細身の体で、この部活の激しい練習に必死に付いて行こうとする様子が妙に健気で印象に残っていた。
俺や涼哉が時折現れると嬉しそうに寄ってきて、俺にはよく懐いていたが、涼哉には声をかけられないようだった。
不思議に思って以前尋ねたら、俺のことは大好きで、涼哉のことは憧れているのだ、と言った。
憧れが強すぎて、恐ろしくて側に寄れないのだ、と。
困ったような顔で白状する大西に、俺は笑いが止まらなかったのを覚えている。
考えてみれば、先輩と後輩がペアになって指導したりゲームをしたりする時は、なぜか大西はいつも俺の側についていた。
それが、涼哉の傍だと体が強張って上手く出来ないからだ、なんて、可愛すぎると思ったのだ。
素直で正直な態度を、俺はずいぶんと可愛いと思っていた。
「大西、ちょっと、話そうか?」
優しく頭を撫でながら、俺は静かに言った。
隣で寂しそうに大西を見ている佐々木を視界に入れながら、俺は小さく笑った。
「なんにも言わないで、バイバイってのは、ちょっと寂しいじゃねぇか」
「なぁ、どうしたんだよ」
ひとけのない構内のカフェへ場所を移動して、二人きりのテラス席で、ココアのコップを握りしめて俯く大西に、俺はふわりと問いかけた。
「なんで、急に辞めるなんてことになってんだよ」
最近一気に上達した大西は、次の大会では、部の代表として出場する予定だったはずだ。
「これまで、頑張ってきたんじゃねぇの」
真面目で、誠実で、努力家で。
俺より更に小柄ながらも、いつだって一生懸命な彼を、俺はひそかに応援していた。
涼哉のような技術はないから、積極的に後輩たちに指導したりは出来ないけれど、炎天下の時には差し入れを届けたり、練習の後には食事へ連れて行ったり、悩みを聞いたり、俺は俺なりに後輩を大切にしていたのだ。
大西は、中でも目をかけていた子だったのに。
「まだ、諦めるには、早いんじゃね?」
ぽんぽんと頭を叩けば、大西は噛みしめていた唇を重く開いた。
「僕は……もともと、不純だったんです」
「え?」
まるで懺悔のような声に、俺はぽかんと口を開いた。
「ぼく、涼哉先輩に憧れて、涼哉先輩みたいになりたくて、テニス部に入ったんです。でも、そんな僕は、りょ……、っ、ふさわしく、ないから」
苦しそうに絞り出される言葉は、何一つ罪に感じるようなことではなくて、俺は心底首を傾げてしまった。
「そんな、理由?」
正直、大学のサークル活動や部活動を、本当に純粋な気持ちで取り組んでいる人間なんてほとんどいないだろう。
将来に向けてのコネ作り、試験勉強の資料狙い、イケメン狙いや美女狙い、新しい環境での友人作り、あるいは時間潰し、そんなところだ。単にその活動が好きだから、という者も一定数はいるかもしれないが、ストイックに道を極めようとする人間は稀だ。
たいていは、それらを満たしつつ、なるべく向いている場所に所属しよう、くらいの気持ちだと思う。
もし、純粋に部活動……テニスへの情熱と憧憬のために活動している者がいるとすれば、目の前の、自分は不純だと、悲しみに暮れる少年くらいだろう。
俺はますます大西が可哀想になって、ぎゅっと小さな体を抱きしめた。
「いいじゃん。それでも一緒に出来て嬉しいよ、おれらは」
しかし。
「っ、ゆずる、先輩は!」
腕の中で、悲鳴が聞こえた。
「譲先輩は、いいんだ!だけど」
悲痛な慟哭が、天井を貫く。
「だけど、涼哉先輩、は、っあ、うああああ」
顔を覆って泣き出してしまった大西を、慌てて抱きしめ、そして。
「……え」
俺は、声を失った。
大西の襟首の下。
肩甲骨の近くに残る、噛み痕。
女が男に残すにしては異常なほどの荒々しさと、不自然な位置。
思わず、手を伸ばして、その傷に触れた。
すると。
「っあ」
泣いていたはずの大西が声を詰まらせ、鳴いた。
さらりさらりとその痕を撫でると、大西の背中が面白いほどに震える。
「や、めてください」
「……なぁ、大西」
ガクガクと、ほとんど怯えるような大西に、なんの根拠もなく、俺の脳裏に一つの確信が閃いた。
「この痕つけたの、涼哉だろ」