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しばらく考えて、『わかった!』という意味の声を上げようとして、自分が言葉を発せないことに気が付いた。掠れ声すらも出ない。必死に口をパクパクと動かしてみたが、そうだ、私は発声の仕方を知らない。というより、言葉そのものを知らない。扉の文字が読めなかったのは、きっとそのせいだ。そこでようやく、初めに考えるべき疑問に行き当たったのだった。
──私は何者だ? ここで何をしている? そもそも、ここは一体どこなんだ? 私はなぜ、こんな所にいるんだ?
今までもそうだった。考えたことは頭の中に、言葉ではなく〝そういった意味の感情〟として生み出されている──動物や原始人のように。はたまた赤ん坊のように。そしてすぐに、このことについて考えるのをやめた。答えはすべてこの扉の先にあると本能的に感じたからだ。私はもう一度、扉の絵を見た。
絵が表しているものは〝人間の一生〟だ。丸の印がついた絵は〝誕生〟、三角は〝成長〟、四角は〝結婚と出産〟、星型は〝老後〟。たぶんそれで間違いない。印はそれぞれの絵が持つ意味を示している。解釈はいろいろとあるかもしれないが、私は丸を無垢、三角を向上、四角を団欒、星型を往生と捉えた。これらもすべて、絵からそういった意味の印象を受けただけにほかならない。
ならば、塔の中にあるのは人生ということだろうか? それは〝私の〟だろうか? ……たしかに私は、自分が誰であるのかすらも知らない。今、人間の姿でもってここにいるが、自分がいつか人間として生を受けたことがあっただろうかと考えると、そんな記憶は持っていない。だからこそ、自分が誰なのかわからない。
──もしかすると、私はこれから生まれるのか?
そう思った矢先、今度は扉全体が光を放ちながら、ゴゴゴ……とゆっくり重い口を開きはじめた。中は暗かった。ようやく塔の中に入ることができる。しかし、私はためらった。この中に入ることで私の人生が始まるのだとしたら、すでに決められた道を歩むことになる。誰かの子として生まれ、それなりに育ち、結婚して家庭を持ち、その後の長い年月を伴侶とともに過ごしたのち、年老いて天に還る……。そんなありきたりな人生を送るために、私は生まれるのだ。
……ありきたり? なぜ私は、それがありきたりだと決めつけている? ここに描かれているのは、あくまで大まかな人生の流れにすぎない。生きてゆく中でいろんな経験をするだろうし、その中にはありきたりでない出来事もあるかもしれない。
──私は何を期待しているのだろう。塔の中に何を求めていたのだろう。
突然、扉の奥から強い光が発せられた。刺すような眩しさに、手の甲で目を覆った。指の隙間から覗くと、中から人影が出てくるのが見えた。それはまっすぐ私に歩み寄り、お蔭で光が少しずつ遮られてくる。額のあたりに当てていた手を下ろし、人影に注目する。扉から放たれる光も収まってきて、人影はその姿をはっきりと見せた。
男だった。私のすぐ正面で歩みを止め、表情もなく同じ高さの視線をじっと私の目に注いでいる。私もしばらくそれにならっていたが、男がぴくりとも動かないのでなんとなく笑顔を作ってみた。すると男も、ほぼ同時に笑顔になった。私は驚いたが、男もまた驚きの表情だ。少し頭を傾ける。それでも目の前にあるのは男の顔だ。その後もさまざまな動きを試してみたが、男は鏡のように同じ動きをするだけだった。
気味が悪くなったので、男に背を向けて走り出した。二人分の駆ける足音が聞こえたが、走っているうちにだんだん男の足音は遠ざかってゆく。足を止めて後ろを振り返ると、男は私と同じ距離だけ反対へ進んでいた。息を整えて、私は男のいる方へ歩いた。もちろん男も同じ歩幅で私の方へ歩いてくる。
また扉の前に戻ってきた。男は相変わらず私の目を見つめている。なぜそうしたかは自分でもわからないが、私は胸のあたりで右の掌を男に向けた。必然的に男の左の掌と合わせることになった。すると今度は、男の方から右の掌を私に向けてきた。少し迷ったものの、恐る恐る左手を出して男の手とぴったり重ね合わせた瞬間、私の頭の中にある光景が浮かび上がり、思わず目を閉じた。