ニー5 帰還
ボルドーに帰還してからしばらく、執務処理に追われている。
リシャールの代筆をするようになってから数年、執務室は何故かおれの部屋の様になり、デスクにはすっかり私物が広げられ、部屋の主であるリシャールは、小さなローテーブルと長椅子が指定席となってしまっている。
本来の部屋の主が不在の今、正しくおれの部屋と化し、執事長のディーターの采配の元、山積みの仕事は随分と片付いていた。
「そろそろ帰ってもいい頃なのに、リシャール遅いな。絶対、リシャールのやつワザとゆっくり帰ってるんだろ。」
ディーターにグチをこぼすと、無駄のない手つきで、休憩にどうぞ、とコリンヌ手製のお茶が出てきた。
お茶と言ってもコリンヌ手製の庭のハーブを煎じて入れられた物で、『ティザーヌ』とコリンヌは言っていた。
日本で言う茶葉ではなく、お湯にハーブの香りをつけた飲み物らしい。
おれはコレがお気に入りで、それがコリンヌも嬉しいらしく、コリンヌが留守のときでもお茶が入れられるようにしてくれているらしい。
机にかがみ込んでカップに鼻を近づけながら冷めるのを待つ。
至福の一時だ。
「昔から、リシャール様はデスクワークは苦手でいらっしゃいますから。」
ディーターはドライフルーツを出しながら少し笑った。
「この様に餌で、何度釣ったことか。ジャン殿がいらっしゃってからは本当に助かってます。」
「ディーターはいつからリシャールの側につかえているの?」
「お小さい頃からずっとでございます。そう言えば、初めてお会いしたのは、ちょうど今のフィル様ぐらいでしたね。お懐かしいです。」
「ってことは、2歳位からリシャールの側にいるのか。・・・ディーターって何歳なの?」
「今年で32歳でございます。侍従になったのが12ですから、もう20年お仕えしております。」
「じゃ、ディーターもエレノア王妃の元で一緒に居たんだ。」
「ええ。その時はポール殿もロベール殿もいましたよ。まだ彼らも幼かったですけれども・・・。そう言えば、昔は二人ともしおらしくしていましてね。ふふふ。」
「えぇ、ロベールは真面目だからなんとなく想像着くけど、ポールも? 借りてきた猫みたいだったの? 」
ディーターはキョトンとした顔をして「 猫? 」と呟く。
ああ。そうか、今この世界にはそんなことわざは存在しない。
おれは、ここでは聞き慣れない地名の遠い場所に故郷がある、という事になっている。
「借りてきた猫とは、面白いですね。ジャン殿の故郷のことわざですか? 」
「そう、おれの故郷のことわざ。簡単に言うと、普段と違って大人しくしているっていう意味かな? 」
「確かに、そんな感じでしたね。でも、歳も近かったせいでもありすぐにリシャール様も馴染んで、あっという間に路頭を組んでしまいましてね。」
ディーターは思い出しながら困ったものでした。とため息を付いている。
「ショーン様がお生まれになってからは、ショーン様までお仲間入りされましてね。姫はあっという間に乗馬も剣技も身につけられて、小さいながらもリシャール様たちについて回って、リシャール様達も大変かわいがっておいででした。・・・姫なんですけれどもね。」
そう付け足すディーターの顔からは苦労が手に取るように感じられた。
ショーン様といえば、シチリアに嫁入りのときに船で送ったという話を聞いたことのある妹姫のことだろう。
確か、当時12歳と言っていたので、今は15歳くらいか。
・・・こちらの結婚事情は、ほぼほぼ政略結婚なのだろうが、色々思うところがありすぎて、考えないようにすることにしている。
どうすることも出来ない事を、いちいち気に病んでいては身が持たない。
兄弟揃って元気の有り余るタイプの子どもだったのだろうな、と、想像すると、本当にディーターが少し不憫になった。
今でも抑えが聞かないところがあるのだ。きっと小さい頃は大変だったのだろう。
そう考えたらウィルは贔屓目を差し引いても、とてもいい子だ。
きっと性格はマグリット様に似たのであろう。
「ウィルもそろそろエレノア様のところに行くけど、ディーターみたいな侍従は誰が行くの? やっぱり、ディーターが選出するの?」
「それなのです。今最も私が頭を抱えているところでございます。ですから、ジャン殿がお帰りになって、リシャール様と一緒に休暇に行っていただけると、実は助かるのですよ。私はその仕事に専念出来ますからね。」
「まぁねぇ。リシャールが居るとアレしよう、コレはどうだとかって言い出すし、なんだか人も集まるもんねぇ。」
「ジャン殿のお陰で執務も大方滞りなく進んでおりますから、後はリシャール様の帰りを待つのみでございますね。」
そう言うとディーターはわかったような顔つきでお茶のおかわりを注いでくれる。
「いや、別に、待ってる訳じゃ無いけど・・・。」
半月ほど離れているだけなのだが、ここ何年かはずっと一緒にいたので、なんとなく寂しい。
いや。なんとなくではなく、寂しい。
少し口を尖らせながら再びカップに注がれた暖かいお茶の湯気を鼻先に当てる。
ダクスでゆっくりお湯にあたりながら、シードルが飲めたらいいな。
「あー。早くダスクでお風呂入りたいよ。そう言えばさ、休暇中にバイヨンヌまで行ってみようと思うんだ。」
「ほう。それはいいですね。それならば、少し足を伸ばして、ナバラまで行かれてもいいかもしれませんね。」
「ナバラ?」
「はい。昔話をしていて思い出したのですが、ナバラにはリシャール様と妹のショーン様と懇意のある、サンチョ様とベランジェール姫様がいらっしゃいますから。お二人兄妹が悪童の頃、過ごした時間は数日間でしたが、リシャール様など6歳も年下のベランジェール様の言う事は何故か聞いてくださいましてね。私達にはあの方が、神様の様に見えましたよ。」
「悪童って・・・。」
思わず突っ込まずにはいられないセリフだ。
ディーターはこほんと咳払いをして、真面目な顔を作り直す。
「・・・まぁ、少し日程が伸びてしまうかもしれませんが、こちらも少し落ち着いて居ることですし、訪ねてもよろしいのでは? 」
「・・・大事にならない?それ。」
「うーん。まぁ、なるでしょうね。リシャール様はピュルテジュネ家の王子ですからね。」
「そうだよね。一応、リシャールにも相談してみようかな。おれもベランジェール様会ってみたいし。」
「ええ。ぜひ、そうなさるといいですよ。エレノア様のように、聡明な美しい姫ですよ。」
ふーん。リシャールが言う事を聞く女性って、ちょっと気になるじゃないか。
ディーターめ。
「ディーターはバイヨンヌのリンゴって食べたことある? おれ、シードル飲みたいって話したら、ロベールがバイヨンヌなら、リンゴ作りが盛んだから、行ってみたらいいって言われたんだ。何年か前にバイヨンヌを制圧した時はリンゴなんか気が付かなかったんだけど。」
「なるほど。それでバイヨンヌですか。確かに、あちらの方でリンゴが作られているという話は聞きましたが、私はあまりこの国を出たことが無いので、あいにくですが食べたことはございません。」
「そうなの? ディーターもダクスの温泉入りに行く? 」
「私は結構でございますよ。実を申し上げますと、旅はあまり好きではございません。汚れるのがどうも性分に合わないのでございますよ。あと、ご覧の通り皆様のような立派な体を持ち合わせておりませんので。」
ディーターはそう言うと足をトントンと叩いて見せる。
彼は足を少し引きずるように歩く。
生まれつきの障害らしいが、幼少期よりあまりに頭の回転が早くかつ周りに気配りのできる人物であったがため、第2王子の侍従候補に抜擢され、見事その役目を勝ち取り、今は執事長という、ボルドー城でリシャール不在の際は全ての権限を任されている人物にまでなったのだ。
室内では気にならないが、旅となると確かに苦しいだろう。
不躾なことを言ってしまった。
「ごめん。気が利かなくって。」
「いえ。ジャン殿。ありがとうございます。リシャール様もこの城の主だった皆様も、私の事を普通に扱っていただけるので、幸せでございます。これからも気になさらず、誘ってください。私も気にせずお断りしますから。」
「なんだよそれ。断る前提じゃん。」
「しかし、誘われないのも寂しいのでございますよ。」
「あはは。意外とディーターは寂しがり屋なんだな。」
「バレてしまいましたね。リシャール様には内緒にしておいてください。すぐに人をからかう方ですから。」
二人で笑い合っていると、外が騒がしいことに気がつく。
ガチャガチャという金属がぶつかる音と共に、部屋の扉が勢いよく開けられ、薄汚れた大男が大股で入ってくる。
「帰ったぞ! ジャン! 寂しかっただろう! 」
「おやおや。もう一人、寂しがり屋が帰って参りましたね。」
「あはは。本当だね。」
ディーターと小さな声でクスクス笑いながら話すと、リシャールが両腕を広げたまま部屋の中央で首をかしげている。
「ん? どうした? 」
おれはリシャールに駆け寄り、その大きな胸をめがけて飛び込んだ。
「リシャール! おかえり! 」
「おかえりなさいませ。殿下。先触れよりも早いご帰還とは、感服いたします。」
「俺が先触れだからな。」
おれのダイブにもびくともしないで、しっかりと抱きとめながら真面目に答えるリシャールに、ディーターが「ふむ。」と、うなずく。
「では、浴室の準備が出来ておりませんので、先に執務でもなされますか? 」
「「いや いや いや いや。」」
思わずリシャールと二人、ディーターに振り向いて、声を揃えて抗議した。
ラブラブバカップルが露呈してしまいました。